海野幸氏のちょこっと解説~若き源義高に従った弓の名手




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目次 contents
  1. 海野幸氏とは

海野幸氏とは

海野幸氏 (うんの-ゆきうじ)は鎌倉時代初期に活躍した武将で、1172年に海野幸親の3男として生まれた。
そもそも海野氏(うんの-し)は、信濃・海野荘(長野県東御市本海野)を本拠ているが、根津氏、望月氏と並ぶ本家筋・滋野氏の後裔で先祖は清和天皇とされる。

1183年3月、木曽義仲の子・源義高(木曾義高・11歳)が、源頼朝の人質として鎌倉に送られた際に、父・海野幸親はまだ12歳だったと推測される海野幸氏や望月重隆ら従者として供をさせた。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の加部亜門 (かべ・あもん)さんが海野幸氏を演じられる。





その後、木曾義仲(源義仲)は平維盛の大軍を破って京に入るが後白河法皇と対立することになり、源頼朝が上洛することになる。
こうして、源義経らの鎌倉勢と木曾義仲(源義仲)は戦う事になり、1184年、宇治川の戦いとなった。
敗走した木曾義仲は巴御前とも別れ、粟津の戦いにて討死。
父・海野幸親も木曾義仲と運命を共にした。
鎌倉にた木曾義高(源義高)の立場は危うくなり、大姫がひそかに鎌倉から脱出させたようとしたとされる。
このとき、側近として従っていた海野幸氏が、木曽義高に扮して身代わりとなって鎌倉に残っていたと言う。
逃走していた木曽義高は武蔵・入間で捕まり処刑された。
しかし、海野幸氏の忠義を称賛した源頼朝は鎌倉の御家人に加えた。

その後、海野幸氏は弓の名手として吾妻鏡にもたびたび登場しており、武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されている。
1193年、曾我兄弟の仇討ちの際に、源頼朝の護衛を務めていた海野幸氏は負傷したとあるが、その後の和田合戦や承久の乱でも海野氏の名が見られる。

1237年、鶴岡放生会流鏑馬射手を初めて任された北条時頼は、流鏑馬・笠懸などの故実を海野幸氏から指南されている。





海野幸氏の没年は不詳で、その後の海野氏の世系についても不明な点が多い。
戦国時代武田信玄の重臣・真田幸隆は海野氏流を称している。

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