藤内光澄をわかりやすく手短に解説~逃亡した源義高(志水冠者)を討取る大手柄をあげるも?




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目次 contents
  1. 藤内光澄とは

藤内光澄とは

藤内光澄 (とうない-みつずみ) は、平安時代後期の武将で、伊豆の御家人・堀親家の郎党(家来)。
主の堀親家(ほり-ちかいえ)は、源頼朝が挙兵した際から従っているため、藤内光澄も主人を支えるため、石橋山の戦いなどにも参じていたものと推測される。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の長尾卓磨(ながお-たくま)さんが、藤内光澄を演じられる。
話がそれて申し訳ないが長尾卓磨さんのご先祖と考えられる「長尾氏」は鎌倉党、すなわち梶原景時大庭景義らと同族であり、鎌倉時代には三浦義村の郎党に加わっていた。

藤内という姓名は、藤原氏の者が天皇の身辺警護などを行う内舎人に任じられて「藤内」と呼ばれたのが始まりのため、もとは藤原氏と考えられる。
以外と藤内を称する武将は多く、例えば比企朝宗や、天野藤内と称した天野遠景なども別名は藤内であるため、決して身分が低い家来ではなかった?とも推測できる。
ただ、藤内と名乗る武将らも前述のとおり領地の地名などにて呼ばれるケースが多いため、もしかたら、藤内光澄にも別の名前があった可能性もある。
そして、堀親家の郎党に加わっていた藤内光澄の名が登場するのは下記のような経緯と言う事に・・・。




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木曾義仲(源義仲)は、鎌倉の源頼朝と和睦して、嫡男・源義高を鎌倉に差し出した。
源頼朝は木曾義高(源義高)11歳と、娘・大姫(5歳)を婚約させている。

しかし、京に上った木曾義仲の横暴に、後白河法皇は源頼朝に木曽義仲追討の命を下す。
そのため、源頼朝は木曾義仲を討伐する立場となり、1184年1月、鎌倉勢は初めて京に上ると、源義経源範頼らの軍勢が木曾義仲(源義仲)を打ち破った。

そのため、鎌倉で人質となっていた源義高が、父の仇を討つと言う考え持っても、おかしくなくなる。
こうして、源頼朝は遺恨を絶つため、木曾義高を殺害することを考えた。
この計画は、侍女たちから知らせを受けた北条政子と大姫が知る所となり、1184年4月21日未明に、木曾義高(冠殿)を女装させ密かに鎌倉から脱出させた。
屋敷には側近の海野幸氏が身代わりとなって残ったと言う。

しかし、夜になって木曽義高が逃亡したことが露見し、源頼朝は堀親家らに捜索・追討を命じた。
このとき、堀親家の郎党・藤内光澄が、入間河原(埼玉県)で木曽義高(源義高)を発見。
その場で殺害すると、4月26日鎌倉に帰還して報告した。

藤内光澄

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この源義高を殺害したことは秘密にしていたが、そう長く隠せることはできず、やがて北条政子と大姫に伝わる。

すると、悲嘆のあまり大姫は寝込んでしまい衰弱したため、北条政子は源頼朝に抗議し、実行犯・藤内光澄の不始末だとして処刑を要求。
本来であれば、藤内光澄は大手柄であり恩賞を授かるべきところ、約2ヶ月後の6月27日、晒し首となった。

鎌倉の武将らは、北条政子を恐れるようになったであろう。
源義高の側近だった海野幸氏・望月重隆や、堀親家に対しては、特に咎めが無かったのは救いか?




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大姫はその後もずっと、今でいう「うつ病」のような症状が続く。
源義高の追善供養や読経、各寺院への祈祷など北条政子はあらゆる手ほ尽くが効果はなかった。
大姫は病から回復する事なく、1197年に死去。享年20。

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