巴御前の要点を簡潔に解説(鎌倉殿の13人)秋元才加さん




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巴御前の要点

巴御前(ともえごぜん)は、平安時代末期の女性で女武者として知られる。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優・女優の秋元才加さんが巴御前を演じられる。
巴御前の生年は不詳で名前は、鞆(とも)、鞆絵(ともえ)とも書く。
父は諸説あるが、樋口兼光の娘、樋口兼光の姉妹、今井兼平の姉妹ともされるが、一般的には中原兼遠の娘となる。




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中原兼遠は木曽の豪族で、1155年に埼玉での大蔵合戦にて源義賢が甥の源義平に討たれた際、斎藤実盛が遺児・駒王丸を連れて木曾に来たことから預かり養育すると、成長した駒王丸は木曽義仲となった。
中原兼遠の子である樋口兼光、今井兼平も木曾義仲に仕え、巴御前は源義仲(木曽義仲)の妾になったとされる。
木曽義高、木曽義重、木曽義基、木曽義宗の母は、巴御前ともされるが、別の女性(姉妹である中原兼遠の娘)が産んだ可能性もある。

ちなみに、木曽義仲(源義仲)の正室は、関白・松殿基房の娘になる藤原伊子(ふじわら の いし) ともされるが異説もあり、中原兼遠の娘が正室ともされる。(巴御前は正室ではなかった模様)
とにかく、よくわからないところが多いのが巴御前と言える。

1180年、平清盛打倒の以仁王の令旨が発せられると、伊豆で源頼朝が挙兵するがほぼ同時期に木曾義仲も挙兵した。
源頼朝が関東を中心に勢力を拡大させたため、木曽義仲は北陸へ進出し、1182年には逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を迎えている。
1183年、平氏平維盛を大将に討伐軍を派遣するが越中・倶利伽羅峠の戦いにて木曽勢が勝利すると木曾義仲は京に進軍した。
<注釈> 倶利伽羅峠の戦いでは、葵御前が討死したとされる。
平氏は安徳天皇を擁して今日から西国へと逃れたため、木曽義仲は朝日将軍と称えられてた。

この一連の合戦では、樋口兼光、今井兼平の兄弟に加えて巴御前も女武将として参陣したとされる。
しかし、平氏に代わり治安維持を任された木曾義仲は貴族的な知識や教養が乏しかったとされ、後白河法皇との関係は悪かった。
後白河法皇は木曽義仲を平氏追撃の為、西国に向かわせると、鎌倉の源頼朝による東国支配を公認し、鎌倉の軍勢を京に引き寄せる。
源義経が総大将となって鎌倉勢が京へと進軍するが、後白河法皇は木曾義仲に引き続き西国にて平氏を討伐せよと命じており、京における治安維持を源頼朝に任せようとする。
そのため、木曽義仲は京に引き返すと後白河法皇を幽閉し一時政権を奪っている。
そして、木曽義仲は関白・松殿基房の娘である藤原伊子を正室にしたと考えられる。




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1184年、鎌倉軍が京に迫ると、宇治川の戦いとなった。
しかし、付き従う兵は乏しく、木曽義仲は敗走すると粟津の戦いで討死した。
巴御前も女武将として戦ったとされる。

木曾義仲討死後

巴御前は木曾義仲の菩提を弔い、大津(粟津)にて庵(義仲寺)立てて供養したともされるが、その後には諸説ある。
北陸に落ち延びると、富山・福光にて生涯を送ったともされる。
面白い説では、巴御前の武勇を知った源頼朝に呼び出されて鎌倉に出頭すると、和田義盛の妻になって朝比奈義秀を生んだともされる。
そして、和田合戦にて和田義盛が討死したあと、越中・福光の石黒氏の元に身を寄せ、菩提を弔う日々を送ったともある。

なお、歴史書に巴御前が登場するのは軍記物語の「平家物語」と「源平盛衰記」のみで吾妻鏡には登場しない。

巴御前の墓としては日本全国に10箇所ほどあるが、そのうち2箇所を最後にご紹介する。

善栄寺(神奈川県小田原市)は、 巴御前が木曾義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝わり、境内に木曾義仲と巴御前の五輪塔がある。

小田原・善栄寺の歴史解説~巴御前の墓・木曽義仲の墓・北条氏康夫人の墓

福光の巴塚公園は、巴御前の終焉の地と伝えられて、91歳で亡くなったと言う。

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