佐々木四兄弟(佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱)~父・佐々木秀義、佐々木義清の関連をわかりやすく




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佐々木四兄弟とは

佐々木四兄弟(ささき-よきょうだい)は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で佐々木定綱佐々木経高佐々木盛綱佐々木高綱のことを差す。
4兄弟の父は佐々木秀義で、宇多源氏の佐々木氏(近江源氏)となる。
1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵した時から鎌倉幕府の樹立に向けて佐々木氏は大きく貢献した。




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父・佐々木秀義

佐々木秀義(ささき ひでよし)は平安時代末期1122年に生まれた。
本貫は近江国蒲生郡佐々木荘であり、妻は源為義の娘。
1159年、平治の乱で源義朝に従うも敗れ、藤原秀衡を頼り奥州へ逃れる途中、相模・渋谷荘の渋谷重国に引き止めらた。
そして、渋谷氏の客将として約20年間、相模で過ごしている。
その間、佐々木秀義は渋谷重国の娘を娶っている。
1184年、三日平氏の乱の際に、において、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、平家継・平信兼らの率いる伊賀・伊勢の平家方残党と甲賀郡上野村で戦い90余人を討った後、戦死した[注釈 2]。享年73。死後、その功により近江権守を贈られる。

佐々木定綱

嫡男・佐々木定綱(ささき さだつな)は1142年生まれで、母は源為義の娘。
父は渋谷荘に滞在していたが、佐々木定綱(ささき さだつな)は下野・宇都宮にいた模様。
蒲生惟賢の娘を妻に迎えていた。
源頼朝の挙兵に際しては、堤信遠の屋敷を襲撃し、弟・佐々木経高、佐々木高綱と共に堤信遠を討った。
鎌倉幕府が成立すると、近江守護・長門守護・石見守護・隠岐守護を兼ねている。




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佐々木経高

次男・佐々木経高(ささき つねたか)は生年不詳。
母は宇都宮氏の娘と考えられる。
源頼朝の挙兵時には、堤信遠の舘に対して最初の一矢を放ったことで有名。
太刀を抜いて戦うと、兄・佐々木定綱と共に堤信遠を討ちとった。
鎌倉幕府では、淡路守護・阿波守護・土佐守護と出世したが、1221年、後鳥羽上皇の承久の乱では、朝廷側について敗れたため自刃している。

佐々木盛綱

3男・佐々木盛綱(ささき もりつな)は1151年生まれとされ、母は源為義の娘となる。
源頼朝が伊豆に流されると、佐々木盛綱は源頼朝の警護など、早くから仕えたようだ。
1180年、源頼朝が挙兵を打ち明けて「頼りにしている」と密談した武将が工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景加藤景廉といるが佐々木盛綱も含まれている。
佐々木盛綱は、堤信遠を討ったあと、加藤景廉と共に山木兼隆の首をとった。




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佐々木高綱

4男・佐々木高綱 (ささき たかつな) は、1160年生まれで、母は源為義の娘
父が関東に逃れた際にはまだ幼かったようで、京吉田にいた叔母に育てられたとされる。
その後、伊豆に赴いたようで、源頼朝の挙兵に加わり、山木兼隆を討った。
ちなみに、5男・佐々木義清もいる




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佐々木義清

5男・佐々木義清(ささき よしきよ)は生年不明だが母は渋谷重国の娘。
佐々木義清は渋谷荘で育ち大庭景親の娘を妻に迎えた。
そのため、石橋山の戦いでは、祖父・渋谷重国と大庭景親に味方して、源頼朝や父・兄4人とは敵として戦っている。
黄瀬川の戦いの際に、源頼朝に寝返ったがその身柄は兄・佐々木盛綱に身柄を預けられた。
しかし、許されると近江守護になった父・佐々木秀義と共に行動。
1221年、承久の乱での武功により、出雲守護・隠岐守護となり、出雲源氏の祖となった。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での佐々木氏配役・キャストは下記の通り。

佐々木秀義 — 康すおんさん
佐々木定綱 — 木全隆浩さん
佐々木経高 — 江澤大樹さん
佐々木盛綱 — 増田和也さん
佐々木高綱 — 見守剛さん

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