中原知親のちょこっと解説~なんで烏帽子を24時間つけているのか?理由も




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目次 contents
  1. 中原知親

中原知親

中原知親(なかはらのともちか)は、平安時代末期の官人で、史大夫(しのたいふ)知親とも言う。
若い頃、定員20名の文章生(もんじょうしょう)に合格したようで、1146年、右少史となり、1152年には右兵衛少尉。
しかし、朝廷での太政官の役職を退いたようで、摂家の文殿に仕えた。
にお、学者として名が知られ、多くの弟子がいたとも言う。




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十訓抄によると、顔が長かったため「面長進士」とあだ名されていたと言う。
藤原忠通に仕えていたころには、外出した際に輿の屋根に烏帽子が当たるので、外していたまま道中で藤原忠通の行列と遭遇した。
その時、急ぎ輿を下りて道を空けた、烏帽子を外していることを忘れていたので、大笑いされたという逸話がある。

烏帽子(えぼし)は、冠下の髺(もとどり・頭髪を頭上で集めて束ねたもの)を隠す目的の帽子。
当時、烏帽子をつけていないと言うのは、下着を脱いで裸で歩いているのと同じように、恥ずかしい事であった。
僧侶と罪人以外、平安時代の成人男性は、貴族も庶民も頭に烏帽子をつけていた。
寝ている時でも、病気のときでも烏帽子をつけている場合もあった。(プライベートな時間は場合による)

晩年の中原知親は、伊勢外宮の神領のひとつである蒲屋御厨(かばやのみくりや)(下田市・南伊豆町)に住み「目代」を務めていた。
<注釈> 御厨(みくりや)とは、天皇家や伊勢神宮の領地の事で、管理者として目代(代官)が派遣されり、武士が領地(荘園)を献上して管理者になることもある。
下記は現在の伊豆・下田の町並み。

伊豆・下田

1180年、伊豆で源頼朝が挙兵した際に、中原知親の親戚である山木兼隆が討たれた。
その挙兵から2日後、源頼朝は中原知親が蒲屋御厨で行ったと言う民衆へ仕打ちを咎め、以仁王の宣旨にて東国の領地は源頼朝が統治すべきとあるとし、伊豆での中原知親の権限を取り上げている。
これが、源頼朝が政権として最初に行った、土地に関しての命令となった。




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その後、中原知親がどうなったのかは不明。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の森本武晴さんが中原知親を演じられる。

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