藤原秀康の解説 後鳥羽上皇に仕えた反北条の武将

目次 contents
  1. 藤原秀康とは
  2. 承久の乱

藤原秀康とは

承久の乱を、朝廷対武家政権(鎌倉幕府)の戦闘であるとする通説が有名ですが、後鳥羽上皇側にも鎌倉幕府と北条氏に対抗する有力な武家がいました。
それが、本稿で紹介する藤原秀康(ふじわらのひでやす)です。

藤原秀康は藤原秀宗を父、源頼光の末裔に当たる源光基の娘を母として生まれた武将で、秀能と秀澄と言う2人の弟がいました。
秀康自身の生年は不明ですが、実弟の秀能が元暦元年(1184年)生まれなので、漠然としてはいるものの1184年以前の誕生と言うことが分かります。

藤原秀康

父の秀宗は和田宗実(和田義盛の弟)の息子でしたが、彼は藤原秀郷の流れをくむ藤原北家に養子となっており、すなわち秀康は義盛と大伯父・大甥と言う関係でもあったのです。

秀郷と頼光両名にゆかりのある武門に生まれ育った秀康は、その名誉ある家名に恥じない働きを見せ、検非違使に任じられて盗賊退治で名を高めたのをはじめ、上皇の住まいである院御所を守る北面武士として奉職しました。
院政を敷いていた後鳥羽院によって西面武士が創設された時も仕えており、秀康は上皇の直属として仕官する武人として皇室を守っていました。

この秀康を始めとした秀宗の子供達は優秀な人物として知られ、次兄の秀能は武士だけでなく、後に僧侶・歌人としても活躍しましたが、秀康の才覚は政治・知謀にも発揮されます。
彼は河内・能登・備前・下野など諸国の守(国司)を歴任しており、富裕でもありました。



この事は平家一門のような例外を除けば、まだ地位の低い兵士・戦士として扱われる事が多かった中世の武士には珍しく、秀康が軍人・官吏としても高い能力を有していた事が伺えます。

承久の乱

後鳥羽院が鎌倉幕府打倒、とりわけ幕政を牛耳った北条義時征伐を企てると秀康もそれに参画し、在京して検非違使判官に任官された鎌倉方の武士・三浦胤義を説得して討幕側に引き入れます。
上皇方には彼ら以外にも、御家人の山田重忠や大内惟信、公家の坊門忠信と忠清の兄弟と言った人材が集まっており、討幕計画は着々と進んでいました。

更に押松と言う従者に密書を持たせて使者とし、義時を討つ院宣を御家人に発し、知謀をいかんなく発揮します。
そして、承久3年(1221年)に挙兵した際には上皇方すなわち官軍の総大将として戦い、京都守護の伊賀光季を自害させて幸先の良い初戦を飾った藤原秀康でしたが、その勝利は徐々に揺らいでいきました。
同志である三浦胤義の兄・三浦義村が倒幕の院宣を北条義時に知らせ、ついには押松も捕えられてしまったのです。



後鳥羽上皇の挙兵を知った鎌倉幕府は秀康と胤義を上皇に讒訴した逆臣として糾弾、義時の幕府軍は秀康が率いる官軍と開戦します。
官軍は美濃、続いて宇治川で幕府軍を迎え撃つも、幕府の大軍に秀康は大敗してしまいます。しかし、秀康の行く手にはさらなる不運が待ち構えていました。

後鳥羽院は義時への追討院宣を取り下げ、秀康兄弟や胤義、重忠達を逆臣と決めつけて逮捕せよと院宣を出したのです。
その裏切りによって官軍の将から一転して追われる身となった秀康は京都の東寺で抗戦するも敗れ、東寺で胤義、佐賀般若寺山で重忠を失ってしまいます。

何とか逃げ延びた秀康は末弟の秀澄と奈良に潜伏しますが、同年の10月に河内で捕まり、京都へ連れ戻されて処刑されました。
彼らを見捨てた後鳥羽院は泰時によって隠岐に流され、大内一派は逃亡生活の末に流罪、坊門兄弟も失脚して倒幕派は壊滅、承久の乱は終結します。
三兄弟の内でただ一人、秀能だけが助命されて隠岐の後鳥羽院のもとに向かいました。



秀康は後の倒幕で活躍した人々―鎌倉末期の楠木正成足利尊氏、あるいは明治の志士達を輩出した薩長両藩やその同盟を締結させた坂本龍馬のように称賛、ないしは再評価されることはなく、今に至っています。
彼と戦った北条義時を主人公とした大河ドラマ・『鎌倉殿の13人』で藤原秀康が登場するか、現時点ではまだ分かっていませんが、後鳥羽上皇による承久の乱と言う“もうひとつの正義”のために立ち上がった、朝廷側の武人による活躍にも期待したいところです。

(寄稿)太田

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