謎の【比企能員】出自・出身を探る~安房国出身の三浦一族なのか?

比企能員の何が謎なのか?

源頼朝を長年支え、鎌倉幕府樹立に大きく貢献した比企能員(ひき よしかず)。
しかし、その比企能員の出身・出自は伝承も少なく、謎に包まれている。

比企能員

比企能員で、分からない部分の問題点は下記の通り。

実父が不明
実母が不明
生年が不明
比企氏の家督を継いだ時期も不明
最初の妻と考えられる渋河兼忠の娘と結婚した時期が不明
嫡男など子供が生まれた歳もほとんど不明
側室・妾などの伝承も少ない



このように、分からない事が多いなか、愚管抄によると出身は「阿波国」との記述がある。
これは漢字の間違えで「安房国」(千葉)と考えている方もおられるようだ。
当方も最初は、四国の阿波ではと考えたが、調べれば調べるほど、四国との接点はなく、千葉の安房の可能性が高いとも、一時迷った。

ともあれ、まずは、安房(千葉)出身として検証してみる。
他に断片的に見つかる情報は下記の通り。

比企尼が比企能員 (比企尼の姉妹が嫁ぎ先で産んだ子と考えるのが妥当)
1192年、三浦義澄家子として比企能員(比企藤四郎能員)と和田宋実(和田三郎宗実)ら10名の記述。
1202年に生まれた末子・比企能本の母は、三浦氏の娘(妙本)。
比企能員の妻は、秩父党の児玉氏流・片山行時の娘。
藤原公員の子が比企能員とも。

※他にもなにかあれば、是非、コメント欄より、お知らせ願いたい。

唯一、安房出身を裏付けられる情報となる、三浦義澄の家子(三浦一族)として比企能員の名があることを検証してみた。

比企能員は三浦一族?

1192年7月25日、朝廷が勅使の中原景良・中原康定を、鎌倉に派遣して、源頼朝を征夷大将軍に任命する。
このとき、鶴岡八幡宮にて、その任命書を受け取る名誉を得たのが、鎌倉幕府創設に大きく寄与した、三浦義澄であった。
そして、三浦一族の者として、一緒に列席した「家子」の中に、比企能員と和田宋実らの名が見られることになる。
和田宗実は、有力御家人である和田義盛の弟。
これらを、そのまま受けると、比企能員は、三浦一族として出席していたと言う事になるだろう。
ただし、源頼朝が、比企能員の尽力に感謝しており、三浦氏の中に、含ませた可能性もあるかも知れない。
源頼朝であれば、やりそうなことだが、三浦氏の娘(どの三浦一族かは不明)が、比企能員の妻(妾)にもなっている縁が、すでにあったのかも知れない。
この記事では、三浦氏との関係を記載しているため、更に追及したい。



1203年、比企能員の変のあと、まだ2歳だった比企能本と、母である三浦氏の娘(妙本)は、助命されて、御家人に預けらた。
鎌倉時代、だいたい、謀反人のような立場の者は、血縁がある親戚に預けられているが、預かったのは、三浦一族の有力者「和田義盛」であった。
のちに安房国へ送られたとあるが、和田義盛は、安房にも所領を得ていたので、その千葉の領地に送られたとも考えられる。
また、その千葉の領地は、かつて、比企氏の養子に比企能員が入るよりもだいぶ前に、比企氏の先祖・日置氏が領していた。

平安時代末期、安房の有力武将は、安西氏・神余氏・丸氏・東条氏。
安房国としては、平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の4郡がある。
しかし、明確に、領地の境界線が、定められていた訳ではなさそう。
鎌倉幕府ができる前の1163年、三浦一族の棟梁・杉本義宗が、水軍を率いて安房の長狭常伴と合戦するなど、安房で領地争いをしている。
<注釈> その杉本義宗の嫡男が和田義盛だが、三浦氏の家督は、杉本義宗の弟・三浦義澄が継いだので、三浦氏も内部では火種を抱えている。

三浦一族の領地だったと伝承があるのは、朝夷郡(あさいぐん)の和田町付近(千葉県南房総市和田町)と考えられ、鎌倉時代末期まで三浦一族が領した。
和田義盛の子である(巴御前の子の伝説もある)朝夷義秀(朝比奈義秀)が、生まれ育った土地ともされる。
また「和田」と言う地名が今でも「町」の名前として残っているくらいなので、三浦一族和田氏の領地だった可能性は高いだろう。
和田御厨(わだみくりや)とする場合もあるようだ。
三浦一族は、水軍も有しているので、東京湾を行き来して、交易も行ったと言えよう。



承平年間(931年~938年)に編纂された辞書「和名類聚抄」(和名抄)に、長狭郡日置郷の二子に「比岐」という字名が載っている。
そして、埼玉の比企郡においても似た記述がある。

和名抄 武蔵国比企郡を載せ、比岐と註す。日置部の居住地なり。

日置部(ひおきべ)と言うのは、神事や祭祀に関わる日置氏と言う意味。

安房の和田浦から、北へ約10kmのところにある、千葉県鴨川市二子地区が恐らく「比岐」に該当するだろう。
「比岐」(ひき)と言うことで、もともと、安房国長狭郡日置郷(鴨川市)を本拠にした、古代氏族の日置氏(ひき-し)の一族がいたようだ。
この日置氏(ひき-し)と言うのは、朝鮮の高句麗系渡来人(日本に来た朝鮮貴族)の末裔とされる古代日本の氏族である。
埼玉県にも高句麗にちなんで「高麗川」(こまがわ)と言う河川があるように、渡来人の多くは、埼玉に住んでもいる。
その高麗川の流域は、まさに、埼玉県比企郡であり、比企氏が称した地元の地名にもなっている。
ようするに、日置氏(ひき-し)と比企氏(ひき-し)は、古くは、同族とも言え、各地に散らばっていたと言えよう。

このように仮定すると、比企能員は、三浦氏の中でも、和田一族だった可能性があり、安房の領地を与えられて、一時的に日置氏を称した可能性があるのかも知れない。
ただし、比企尼の実の姉妹が産んだ子供と推測できるため、比企尼の姉妹である女性が、和田氏の誰かに嫁ぎ、次男などで生まれたのが、比企能員であったと考えるのには、少し無理がある。
なお、地名はそんなに重要ではないと言う事が言える。
比企尼は、朝廷で祭祀を司った、大中臣倫兼の長女とも?考えられるので、その大中臣倫兼の娘が、三浦一族に嫁いだとも推測できるが、可能性は低いか・・。
比企尼の父とも推測される、大中臣倫兼は、ずっと朝廷で仕えていたと考えられるため、娘たちが嫁いだのも、朝廷に関わる京にいた人物、京を訪れた人物と言える。
となると、三浦一族で、平安時代末期に、平氏から命を受けて、大番役などで京に滞在したことがある武将に、比企尼の姉妹が嫁いだ可能性が考えられるが、誰なのか?、調べるのは、かなり困難なのが実情である。
比企能員の出身は安西氏ともする説があるが、安西氏の武将だと、三浦一族として表記はされないだろう。
安西氏である可能性は低いと考える。

比企氏の乱での戦いにて、三浦義村、和田義盛、和田常盛、和田景長ら、三浦一族は、総力を挙げて、北条義時に従い、比企氏館を攻撃した。
三浦義村や和田義盛ら三浦一族は、自分たちよりも出世している比企氏を、よくは思っていなかった可能性もある。
もし、比企能員の出自が、三浦一族であった場合、応戦した比企一族の気持ちを考えると、とても、偲ばずにいられない。
このように、三浦氏と比企氏の関係から、先祖である比企氏じたいの出自は、安房・日置氏であったとしても、比企掃部允や比企能員は、他の家から比企氏を継いだにすぎないと推測して良いだろう。



余談になるが、吾妻鏡の記述によると、和田義盛は、晩年、上総国伊北庄を拠点にし、上総介になりたいと申請を出していたと考えられる。
そして、比企氏滅亡から10年後の1213年、今度は、和田義盛が北条義時から狙われる。
一族の三浦義村が鎌倉勢に寝返り、和田合戦で大敗した和田義盛は、命を落とした。
長男・和田常盛の子である和田朝盛と、その子・和田家盛は、安房の佐久間(千葉県安房郡鋸南町)に移り住み、佐久間家盛と称している。
<注釈> 織田信長の重臣・佐久間信盛の先祖にあたる。

阿波出身を検証

古代氏族系譜集成に下記のような記述がある。

掃部允遠宗(比企郡司、実は藤原有清男。妻藤原公員妹・号比企尼、頼朝公乳母)
藤四郎能員(比企判官、実は藤原公員男。兄は比企藤内朝宗。妹は惟宗広言妻・島津忠久・忠季を生む)

比企掃部允となった武将は、藤原有清であり、阿波・佐藤氏の系図に、佐藤清郷と、その孫・佐藤有清の名が見られる。
この佐藤清郷(佐藤大夫清郷)は、武蔵の比企氏に養子に入り、比企掃部允の1代前の比企宗員(比企掃部允宗員)となった。

阿波・佐藤氏の始祖は、佐藤公光(佐藤相模守公光)で、平安末期の関東では、先祖として、よく名前が登場する、平将門を破った、藤原秀郷の系統となる。
当初は讃岐・佐藤氏で、もともと藤原氏を称していたが、佐藤公清のときに「左衛門尉」に任じられ、その子・佐藤季清と、孫・佐藤康清も左衛門尉になったので、官名の「左」と藤原の「藤」から「佐藤さん」と呼ばれるようになった。
佐藤康清の子・佐藤義清(佐藤左衛門尉義清)は、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市)を領し、平清盛と同じく北面の武士であったが、武士を辞めて出家し、西行(西行法師)になったエピソードはよく知られる。

その佐藤公清 の 4男・佐藤公郷など、阿波国一円に広がり、阿波・佐藤氏にも発展したと言う。
ちなみに、佐藤公郷の養子となった佐藤資清(佐藤助清)がおり、その子は首藤資通は源義家に従っており、滝口刑部丞(内裏警護)で、源義朝に従った山内首藤俊通となり、山内首藤俊通の娘・山内尼(摩々局)は、源頼朝の乳母を務めた。
山内首藤氏も、相模国出身で、例のとおり、藤原秀郷の後裔を称している由縁である。
藤原秀郷の子孫は、佐藤氏をはじめ、足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・大友氏・波多野氏・松田氏・小野寺氏・尾藤氏・首藤氏・山内氏・伊賀氏・伊藤氏、那須与一宗隆も、この佐藤資清(佐藤助清)の系統になる。
他にも、近藤能直(中原能直・大友能直)の近藤氏などが藤原秀郷の子孫にあたる。

その佐藤清郷の孫に、比企掃部允になったと言う、佐藤有清の名が見られる。
この佐藤有清の父?・佐藤公広は、肥前・後藤氏(後藤則明の養子)になったようで、源頼信・源頼義に従っていた。
この肥前・後藤氏は、のち、武蔵国比企郡野本をなぜか領地にする、野本基員と共通の先祖・藤原利仁を持つ。
こうして、佐藤有清が、比企氏の家督を継いで、比企遠宗(比企掃部允遠宗)になったものと推測される。
佐藤姓であったが、もとは藤原氏なので、藤原有清と記載されていても、おかしくはない。



さて、問題なのは、比企能員の出自であるため、そのヒントから探っていきたい。
古代氏族系譜集成では、比企能員は、藤原公員の子としている。
そして、藤原公員(ふじわら-きみかず)は、比企尼の兄でもあるとしている。
あっさり見つかったと思いきや、100年くらい前の人物で、時代が合わず、該当するような裏付けが取れない。
佐藤孫八郎とする場合もあるようなので、まずは、佐藤姓・佐藤公員として調べてみても無理だった。
ただ、この時代、藤原北家の藤原氏でも、名前に「公」の字を比較的、よく使用しているのがよくわかる。

また、比企尼の長女・丹後局は、京の官僚・惟宗広言の妻になっているので、比企氏じたいが最初、京にて暮していた可能性も高い。
そのため、比企尼の兄・藤原公員は、京にて生活している藤原氏か、領地は地方でも、武士として京にいた佐藤一族の関係者だと考えられる。
となると、比企の尼の甥とされる、比企能員も、京の藤原氏・佐藤氏関連が出自だとも考えてしまう。

比企能員として、一番気になるのは、徳大寺実能(とくだいじ-さねよし) → 徳大寺公能(とくだいじ-きんよし)関連の子や一族。
北面武士・佐藤季清(藤原季清)は、徳大寺家に仕えていた。
また、公卿・藤原光能(ふじわら の みつよし)の娘が、徳大寺公能の妾にもなっている。
また、藤原光能の正室は、武蔵国の足立遠元の娘であるが、藤原光能の子としては、中原広季の娘が産んだ子が中原親能がいて、大江広元は母不明と言える。
この徳大寺氏、藤原北家御子左流の藤原氏に近い人物が、比企尼であり、比企能員なのかも知れない。
根拠があるとは言えないが?、阿波・佐藤氏の娘(比企尼の妹)が、徳大寺氏などの縁から、藤原光能など藤原氏の妾などになり、その子が比企能員であり、母の実家の阿波で生まれ、比企氏が養子に迎えた?とも、想像してしまう。

藤原範季の縁者?の線

比企尼が、源頼朝の弟・源範頼を、匿い、武蔵国比企郡の安楽寺(吉見観音)に入れていたという伝承があります。
しかし、その源範頼は、1161年からは、京にて後白河法皇の近臣である藤原範季(ふじわら の のりすえ)の養子になったようです。
そして「範」の字を与えられたものと推測できます。
突然、公卿の藤原範季が源範頼を養育していることから、もしかしたら、比企尼と藤原範季は「親戚」である可能性もあるでしょう。
ひょっとしたら、比企尼と藤原範季は兄弟?なのかも知れません。
平清盛の全盛期に、源氏である源義朝の子を、喜んで、養育するとは、とても思えません、
リスクを承知で、源範頼を養育するだけの、何か理由があったように感じます。
その他、藤原範季は、1186年、腰越状のあと京に入って、興福寺に潜伏中の源義経と接触すると、一時、匿まっています。
このように、京では、藤原範季が、源氏を手厚く保護していることから、比企尼とも近い存在だった可能性が、あるかも知れません。
となると、比企能員も、藤原範季の親戚筋・縁者だった可能性もあるでしょう。

他にも、毛呂季綱の父・毛呂季光は、藤原季光とも言い、源頼朝が伊豆にて流罪となっていたときに、助けたことがあると吾妻鏡にありますので、比企氏と藤原季光の関連も気になります。



比企能員(比企藤四郎能員)に関しては、愚管抄で「阿波国」が出自としているため、阿波・佐藤氏の一族だった可能性が高いだろう。
安房である可能性よりも、四国の阿波出身のほうが、まだいくつか材料がそろっている次第であるが、不詳といったところだ。

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