比企掃部允の解説~謎の出自に迫ってみると阿波・佐藤氏(藤原氏)出身か?




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比企掃部允とは

比企掃部允(ひき-かもんのじょう)は、平安時代末期の貴族に近い武士で、生没年は不明。
比企氏(ひきし)は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡と東松山市)が所領であり、下野と武蔵の国司だった藤原秀郷の末裔を称している。
藤原秀郷の末裔である理由としては、比企氏は、相模(神奈川県)の波多野氏(はたのし)を出自としているからになる。

波多野城

波多野氏の先祖は、平将門を倒し下野国(栃木県)や武蔵の武蔵の国司(管理者として赴任)になった藤原秀郷(俵藤太)とされ、妻は秦氏の娘。
佐伯経範(藤原秀郷の孫)が、源頼義に従っており、波多野荘(神奈川県秦野市)に領地を得て、波多野氏の祖となった。
なお、佐伯経範の妻が、藤原秀郷流・藤原氏の娘だったことから、一時、藤原氏を称しましたが、のちの子孫は、地元の地名「波多野」と名乗った次第。
比企氏は、その波多野氏から分かれた、波多野一族とされ、康和年間(1099年~1104年)に、波多野遠光が郡司として、埼玉県の武蔵・比企郡に入ったと考えられる。

比企掃部允は、比企尼(比丘禅尼?)と言う女性を妻にしている。
昔から、波多野一族が、源氏に協力していたこともあり、1147年、源頼朝が生まれると、比企尼は乳母に抜擢された。
以後、比企氏は、源頼朝を強力に支えて行くことになる。

波多野遠光の孫と推測できる比企遠宗が、比企掃部允だとする説もある。
しかし、まずは、比企尼の夫・比企掃部允は、比企宗長の可能性を探ってみた。





比企宗長?

比企掃部允の官職は「掃部允」。
掃部允(かもんのじょう)とは、朝廷(宮中)にて、宮中行事や、殿中の清掃、設備管理など行う役割のナンバー3くらいの立場であり、比企掃部允と比企尼は、若い頃、普段は京にいたと考えると、武士と言うよりは貴族に近い武士と言う感じだ。
恐らくは、妻の比企尼も、京にいた人物の娘(大中臣倫兼の娘とも)で、京にて結婚したのだろう。

源頼朝が生まれてから約22年後の1169年10月28日、法勝寺における大仁王会にて、装束を担当した所司に「掃部少允正六位上藤原朝臣宗長」の名がある。
掃部少允と言うのは、掃部允より1個下級の役職と言う事で、その後、1ランク出世して、掃部允になったと想像するのは、無鉄砲と言う事にはならないだろう。
この人物が、比企掃部允と、同一だと考えると、比企掃部允の実名は、比企宗長と言う事になる。
比企掃部允の実子と考えられる子は、比企朝宗(比企藤内朝宗)と名乗っているので「宗」の字も当てはまる。
ただ、掃部少允正六位上藤原朝臣宗長の上の姓名が記載されていないので、100%確実に、比企掃部允であるとは断定できないところだ。

比企掃部允の没年は不明だが、20年以上、伊豆で流罪となっている源頼朝を、経済的に支援し、1180年、源頼朝が挙兵する前には、既に亡くなっていたとされる。
次は、比企遠宗である可能性を追求してみる。

藤原秀郷の末裔か?

古代氏族系譜集成で、下記のように記述されている。

阿保朝臣人上(建部朝臣、武蔵介、大学頭、延暦二十年卒)―大国(居武蔵国阿保庄、比企郡司大領、天長十一年死)―宗人(賀美郡擬少領)―只上(比企郡大領)―中宗(同少領、従源経基、天慶三年軍功、伐武芝)―比企三郎宗家(住武州比企郡、従源満仲)―右馬允宗末(属満仲)―太郎宗躬(比企郡擬大領、従源頼信)―掃部允宗妙(同少領)―太郎宗陳(同郡擬少領)―宗職(同郡少領)―掃部允宗員(同擬少領、実は佐藤大夫清郷男)―掃部允遠宗(比企郡司、実は藤原有清男。妻藤原公員妹・号比企尼、頼朝公乳母)―藤四郎能員(比企判官、実は藤原公員男。兄は比企藤内朝宗。妹は惟宗広言妻・島津忠久・忠季を生む)

最初に出てくる、阿保人上(あぼ-の-ひとかみ)は、奈良時代の貴族で、建部氏・建部牛養の子。
786年に武蔵守・武蔵国司を務め、790年 7月24日には大学頭。(人事の最高責任者)
のち建部朝臣、阿保朝臣、武蔵少掾とも呼ばれている。
最終的に、占い・天文・時・暦の編纂を担当する陰陽頭。(最高責任者)
801年死去。

阿保大国に関しては調べても不明
住んだとする武蔵国阿保庄は、武蔵国賀美郡安保郷(埼玉県神川町)とも考えられる。
比企郡司大領の意味は、郡の大領(たいりよう) = 長官 と言う事なので、比企郡の最高実力者と言える。
833年死去。





阿保宗人(比企宗人)に関しても詳細不明。
賀美郡擬少領とあるのは、賀美郡安保郷の少領(しょうりょう) = 大領の次に偉い次官であり、擬任(ぎにん)と言うのは、正式には任命しないけど、国司が推薦し、地方官吏の実務を担当したと言う事になる。

そして、宗人、只上、中宗と続いた歴代が比企郡ないし賀美郡の郡司をつとめた。
比企中宗は、武蔵介・源経基に従い、940年、武蔵武芝(むさし の たけしば) を伐ったときに軍功があった。

比企宗家(比企三郎宗家)は、比企郡にいて、続く比企宗末(比企右馬允宗末)も源満仲に従った。

比企宗躬(比企太郎宗躬)は、比企郡擬大領で、源頼信に属している。
比企宗妙(比企掃部允宗妙)は比企郡少領で、比企宗陳(比企太郎宗陳)は、比企郡擬少領。恐らく、京にいたのだろう。
比企宗職は比企郡少領。

比企宗員(比企掃部允宗員)は、比企郡擬少領で、実は佐藤大夫清郷の子とあるで、養子となって比企氏を継いだと言って良いだろう。
佐藤大夫清郷は、佐藤公郷の子で、陸奥国信夫郡余目の荘司としてその名が見られる。
先祖には、平将門を討伐し、下野国・武蔵国の国司と鎮守府将軍になった藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)がいる。
すなわち、ここで、藤原経範からの波多野氏とも親戚になる、藤原北家秀郷流の血が入ったと言う事になる。

そして、注目の比企郡司の比企遠宗(比企掃部允遠宗)。
古代氏族系譜集成では、実は藤原有清男。妻藤原公員妹・号比企尼、頼朝公乳母とある。
要するに、藤原有清の子が、養子になったのか?、名前が変わり比企遠宗(比企掃部允遠宗)と称して、妻は藤原公員の妹で、法号は比企尼と言い、源頼朝の乳母を務めたと言う事。
しかし、肝心の藤原有清藤原公員(佐藤公員)が、どの藤原氏なのか?が、これが難解である。
とにかく、藤原氏は人物が多すぎるし、もしかしたら、違う姓名にて、現在、伝わっている可能性もあり、名前じたいを変えている可能性や、古い史料の漢字間違え・勘違いの可能性も当然ある。

下記写真は、比企遠宗の館とされる、比企郡・三門館(みかどやかた)付近。

三門館(みかどやかた)

ひとつ、系図に「」の漢字や、「」の漢字がよく見られる、同時代の佐藤氏がいる。
その佐藤氏は、讃岐・佐藤氏となり、始祖は、佐藤公光(佐藤相模守公光)で、例のとおり、平安末期の関東では、必ずポイントになる、平将門を破った、藤原秀郷から5代孫のようだ。
佐藤公清が「左衛門尉」に任じられ、その子・佐藤季清と、孫・佐藤康清も左衛門尉になったので、官名の「左」と藤原の「藤」が合わさって「佐藤さん」と呼ばれるようになった。
佐藤康清の子・佐藤義清(佐藤左衛門尉義清)は、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市)を領し、平清盛と同じく北面の武士であったが、武士を辞めて出家し、西行(西行法師)になったエピソードはよく知られる。
最も発展したのは、本拠の下野から陸奥の信夫郡に進出した奥州・佐藤氏で、内閣総理大臣・佐藤栄作などを輩出した。

その佐藤公清 の 4男・佐藤公郷など、讃岐・佐藤氏は、阿波国一円に広がり、阿波・佐藤氏にも発展したと言う。
ちなみに、佐藤公郷の養子となった佐藤資清(佐藤助清)がおり、その子・首藤資通は源義家に従っており、滝口刑部丞(内裏警護)で、源義朝に従った山内首藤俊通となり、山内首藤俊通の娘・山内尼(摩々局)は、源頼朝の乳母を務めた。
山内首藤氏も、相模国出身で、関東のキーパーソン・藤原秀郷の後裔を称している由縁である。
藤原秀郷の子孫は、佐藤氏をはじめ、足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・大友氏・波多野氏・松田氏・小野寺氏・尾藤氏・首藤氏・山内氏・伊賀氏・伊藤氏、那須与一宗隆も、この佐藤資清(佐藤助清)の系統になる。





話を戻して、佐藤公郷の子が、佐藤清郷(佐藤大夫清郷)で、武蔵の比企氏に養子に入り、比企宗員(比企掃部允宗員)となった。
その佐藤清郷の孫に、佐藤有清の名が見られる。
この佐藤有清の父?・佐藤公広は、肥前・後藤氏(後藤則明の養子)になったようで、源頼信・源頼義に従った。
この肥前・後藤氏は、のち、武蔵国比企郡野本をなぜか領地にする、野本基員と共通の先祖・藤原利仁を持つ。
こうして、跡を継げる家もなかったのか?、佐藤有清が、比企氏の家督を継いで、比企遠宗(比企掃部允遠宗)になったものと推測される。
佐藤姓であったが、もとは藤原氏なので、藤原有清と記載されていても、おかしくはない。

100%の断定はできないが、藤原秀郷の流れを汲む比企氏は、阿波・佐藤氏系であったと言うことになるだろう。

問題は、比企尼の兄とされる藤原公員(ふじわら-きみかず)。
あっさり見つかったと思いきや、100年くらい前の人物で、時代が合わず、遅く生まれた子なのか?など、年代の裏付けが取れない。
佐藤孫八郎とする場合もあるようなので、佐藤姓・佐藤公員として調べてみても無理だった。
ただ、この時代、藤原北家の藤原氏でも、名前に「」の字を比較的、よく使用しているのがわかった。
徳大寺公能(とくだいじ-きんよし)などの大徳寺氏にも「公」が多く、京では、はやりの漢字だったようだ。
地方では「公」の字は、少ないように感じる。
また、比企尼の長女・丹後局は、京の官僚・惟宗広言の妻になっているので、比企氏じたいが最初、京にて暮していた可能性も高い。
そのため、比企尼の兄・藤原公員(佐藤公員)は、京にて生活している藤原氏か、領地は地方でも、武士として京にいた佐藤一族の関係者だと考えられる。
となると、比企の尼の甥とされる、比企能員も、京の藤原氏・佐藤氏関連が出自だと考えるのが、妥当となる。





比企能員(比企藤四郎能員)に関しては、愚管抄で「阿波国」が出自としているため、阿波・佐藤氏(藤原氏)の一族だった可能性も高い。

ただし、平安時代末期、武家も公家も、先祖が藤原氏だと言う者は、全体の6割いるともされるため、比企能員が、藤原氏が出身というのは、半分くらいの確率で、当たっているとも言えてしまう。

以上、不明点がたくさんあり、上記にて記載してることが、すべて、正しいと申し上げる訳ではない。
可能性のひとつとして、ご理解のほど、賜りますと幸いである。

<参考> 埼玉苗字辞典

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