土肥遠平をわかりやすく2分で解説~小早川遠平となる小早川氏の租




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土肥遠平とは

別名 : 土肥弥太郎、万寿冠者、小早川遠平
役割 : 鎌倉幕府の御家人
時代 : 平安時代末期~鎌倉時代初期
生没年 : 生年不詳~1237年9月5日没
父 : 土肥実平
兄弟 : 新開実重
正室 : 万劫御前(伊東祐親の娘、工藤祐経の前妻)
子供 : 土肥維平、伊東祐時の妻、三浦義村の妻、<養子>小早川景平 (平賀義信の5男)
墓所 : 米山寺 (広島県三原市)

土肥遠平

土肥遠平(どひ-とおひら)平安時代末期の武将で、土肥実平の嫡男として生まれました。
父は、土肥荘(湯河原)を本拠としていたため、土肥遠平は、早川荘を与えられたようで、小早川村に館を築いて、小早川遠平と名乗りました。
<注釈> 早川荘は、現在の小田原市で、小早川村の館(花岳城付近か?)は小田原城の前進。
弟は、武蔵国の新開氏へ養子に入り、新開実重(新開荒次郎実重)と称しています。





土肥遠平の正室は、伊東祐親の娘・万劫御前です。
万劫御前は、伊東荘の工藤祐経(くどう-すけつね)に嫁いでいましたが、父・伊東祐親が伊東の領地を奪った際に、離縁されて、土肥遠平に再嫁しました。
また、妙仏尼(天窓妙仏尼)と言う、源頼朝の娘とされる女性も、妻であるとありますが、万劫御前と同一人物である可能性が高いです。

土肥遠平の実績ですが、鎌倉幕府成立においては、ほとんど父・土肥実平に従っているため、目立ったものはありません。
ただし、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房(あわ)へ脱出した際には、土肥遠平が、伊豆山神社にいた北条政子に知らせる役目を担っています。

伊豆山神社

なお、領地が荒れ果てていた、備後には、土肥遠平が代官として在国していたともあります。





1199年、源頼朝が逝去すると、仏門に入り道慶と号しました。
その後、鎌倉幕府では御家人間の争いが続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされます。
1213年には、和田合戦となりますが、土肥遠平の子・土肥惟平が、同じ中村一族の土屋義清や、横山党の横山時兼らと、和田義盛に協力しました。

和田合戦

しかし、和田勢は敗れ、嫡子・土肥維平は斬首。
土肥維平の2人の子も討死していますが、老いた土肥遠平は無関係を証明し、本領の土肥郷と安芸・沼田荘を維持したものの、中村一族は衰退したようです。





ちなみに、同族の土屋氏は、戦国時代にも北条氏、足利氏、武田氏、徳川氏の家臣に見られます。
特に武田信玄に仕えた、武田24将の土屋昌続は有名です。

沼田・小早川氏

こうして、鎌倉幕府にて実力を失った小早川遠平は、一族を連れて、安芸・沼田荘に移り住んだとされます。
沼田(ぬた)では、三太刀城(みたち-じょう)を本拠にした可能性があります。

三太刀城

1219年には、父・土肥実平の妻・天窓妙仏尼の菩提を弔うため、棲真寺(三原市大和町平坂)を開基した記録があります。

土肥遠平(小早川遠平)の墓は、小早川氏歴代の墓所がある安芸・米山寺(広島県三原市)となります。

米山寺・小早川家墓所

また、神奈川県湯河原の城願寺にも、土肥一族の墓があります。

土肥一族の墓

本堂の左側墓所の奥あたりです。

土肥一族の墓

小早川氏は、戦国時代になると毛利元就の子を養子に迎え、小早川隆景を輩出しています。

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