土肥実平をわかりやすく3分で解説~源頼朝に大きく貢献した中村一族の老将

目次 contents
  1. 土肥実平とは

土肥実平とは

別名 : 土肥次郎、万寿冠者、土肥實平
役割 : 鎌倉幕府の御家人
時代 : 平安時代末期~鎌倉時代初期
生没年 : 生年不詳~1191年11月25日没
父 : 中村宗平
兄弟 : 中村重平、土肥実平、土屋宗遠、二宮友平、堺頼平、桂御前(岡崎義実の妻)、満江御前(伊東祐親の妻)
正室 : 土肥の女房
子供 : 土肥遠平、新開実重
墓所 : 城願寺 (湯河原)

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、土肥実平を、俳優の阿南健治さんが演じられます。
下記の写真は、JR湯河原駅前にある、土肥実平と妻の銅像です。

土肥実平と妻の銅像

土肥実平(どい-さねひら)は、平安時代末期の武将で、中村宗平の次男として生まれました。
中村氏は、相模・中村荘(小田原市中村原・中井町中村)を領した中村党とも呼ばれるの荘司です。
祖父・山辺常宗(山辺太郎常宗 / 笠間押領使常宗)のときは、横浜市栄区の笠間が本拠だったようですが、鎌倉景政(鎌倉景正 / 鎌倉権五郎景政)に討たれ、父・中村宗平 (なかむら-むねひら)は、母の領地に移って中村氏を称したようです。
天養元年(1144年)、三浦吉次・三浦吉明らと源義朝(よしとも)の郎従のひとりとなって、鎌倉党の本拠地である相模・大庭御厨(おおばのみくりや)を荒らしていますが、子の土肥実平・土屋宗遠らも鎌倉氏の征伐に参加したとされます。



兄・中村重平は中村荘を相伝して中村太郎と称し、次男の土肥実平は土肥郷を与えられていました。
3男の土屋宗遠は土屋姓であることから、相模・土屋郷と考えられます。
4男の二宮友平は二宮河勾(かわわ)荘、5男の頼平は中村荘に北接する堺を分領され、堺頼平と称しています。

千歳川の河原に温泉が湧く湯河原温泉がありますが、かつては土肥と言い、万葉集では「あしがりのとひ(土肥)のかふち(河内)にいづるゆ(湯)のよにもたよらにころがいはなくに」と収録されています。
明治には土肥村となっていましたが、大正に入り町になった際に温泉名から湯河原町へと変わった次第です。

早川庄預所も勤めた土肥実平の館があったのは、湯河原・城願寺付近ともされていますが、駅前にも土肥氏館跡の石碑があります。

土肥氏館跡の石碑

土肥実平の妻に関しては、源平盛衰記では「土肥の女房」。
吾妻鏡では「土肥の妻 」「土肥の後家の尼」としか、記載されておらず、名前や出自は不明です。

1180年、源頼朝が挙兵した際、事前に密談も受けた土肥実平は老齢の域に入っていたようですが、宗家の中村氏はふるわなかったようで、実質的に、土肥実平が中村党を率いて、源頼朝に味方しました。
工藤茂光、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らと、山木兼隆の山木館襲撃にも加わっています。



続いて、源頼朝らは、湯河原に入ると土肥実平の館にて2日間作戦を練りました。
石橋山の戦いで敗れると、土肥へ引返しましたが、堀口の戦い(鍛冶屋瑞応寺付近)でも再度敗れて、山中に逃れます。
この源頼朝の旗揚げから逃亡には、常に土肥実平も従っており、源頼朝が箱根山で自刃を覚悟した際には、土肥実平が自害の作法・故実を教えたとされます。
また、源頼朝と行動を伴にしたいと申し出た、加藤景員・宇佐美祐茂に対して「今は敵に見つからないようにバラバラに逃げることが大事」だと諭したともあり、土肥実平は源頼朝から頼りにされていたようです。
山に隠れている際には、土肥実平の妻が、隠れ場所まで食料を運んだともされます。

源頼朝らは、土肥・椙山(杉山)の「しとどの窟」にて、鎌倉党の梶原景時に発見されますが、見逃してもらえると、土肥実平が用意した船で、真鶴から房総半島へと脱出しました。
富士川の戦いでは、奥州から駆けつけた源義経を、現在の三島・八幡神社にて、土肥実平が源頼朝に取り次いでいます。



なお、平家勢の大庭景親に味方し、石橋山の戦いでは、源頼朝の甲冑に、矢を当てた、山内首藤経俊がいます。
<注釈> 鎌倉時代の武将は、恩賞をもらえるよう、自分の矢に、名前を書いていて、誰が討ち取ったのか?、わかるようにしていた。
その、山内首藤経俊は、捕らえらると、身柄が、土肥実平に預けられています。
となると、山内首藤経俊の妻などが、中村氏の一族だった可能性も考えられます。
また、山内尼と言う女性が、源頼朝の乳母を務めていますので、その縁もあり、土肥実平には挙兵前から打ち明けていた可能性もあります。

その後も、中村党は平家追討や奥州合戦にも参加して、武功を挙げ、鎌倉幕府に貢献しました。
特に、土肥実平は、平家滅亡の際に、梶原景時と共に源範頼・源義経の奉行として活躍したほか、鎌倉・鶴岡八幡宮の造営にも関わりました。
また、一ノ谷の戦いのあと、平清盛の妾・厳島内侍を、妾にしたともされます。



備前国、美作国、備中国、備後国、播磨国などの守護に任じられていますが、少しずつ、権限を失い、所領を減らして行きました。

その後、土肥氏は、安芸・沼田荘(ぬた)へ移り、安芸・小早川家へと繋がって行きます。

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