3分でわかりやすく解説「加藤景廉」~源頼朝から信頼された武将




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加藤景廉とは

加藤景廉(かとう-かげかど)は平安時代末期の武将で、1156年?に加藤景員(かとう-かげかず)の次男として生まれました。
通称は加藤次(かとうじ)で、兄に加藤光員(かとう-みつかず)がいます。
また、伊豆権現・別当寺である密厳院の住職・文陽房覚淵は兄弟とされます。
この加藤氏は、藤原利仁(ふじわらのとしひと)の末裔ともされ、橘永愷(能因)を先祖に持ちますが、橘氏ではなく、母方の加藤氏を称するようになったともされます。

加藤景廉

源平盛衰記によると、父・加藤景員は、伊勢国目代でしたが、平家の家人を殺害した事から、子の加藤光員・加藤景廉を連れて、伊豆の豪族・狩野茂光の元に身を寄せたと言います。
流刑だったとの記述は見られず、単に頼ったとも考えられます。

伊豆・牧之郷

1156年、保元の乱に敗れた源為朝が、伊豆大島に流刑になりますが、その伊豆諸島を従えるようになり、領主である工藤茂光は当日の許可を得ます。
討伐軍によって、これまでと堪忍した源為朝は、自刃しますが、そのとき、加藤景廉が既に自害していると確認して、源為朝の首を取ったとされます。

1180年、伊豆にて流罪となっていた源頼朝が挙兵を相談した武将として、工藤茂光(狩野茂光)、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱らがいますが、その中に加藤景廉の名も見られます。
山木兼隆を襲撃した際、加藤景廉は、源頼朝から長刀を与えられ「兼隆の首を討って持参すべし」と命じられました。
そして、佐々木盛綱と加藤景廉が討ち取る武功をたてています。
父・加藤景員、兄・加藤光員も、石橋山の戦いに参じましたが源氏勢は敗走します。





老齢だった父・加藤景員は、逃げるのに足手まといになるとして、山中で出家し、子供たち兄弟は甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れました。
そして、北条時政・北条義時らと甲斐源氏の武田信義・安田義定らに味方し、鉢田の戦いにて、駿河目代・橘遠茂に勝利しました。
<注釈> 合戦場となった波志山と鉢田山の場所は、特定されていないため不明。

1182年、盃酌の儀(杯をやりとりして酒を酌み交わす)にて、加藤景廉は、酒を飲み過ぎて、気を失ったとあります。
大騒ぎとなり、佐々木盛綱が抱えて連れて行き、退去し療養を行った。これによって酒宴はお開きとなった。

その後、兄・加藤光員と源範頼の軍勢として、平氏討伐でも活躍。
ただし、病身をおして出陣したようで、そのことを鎌倉にいた父・加藤景員が、源頼朝に伝えると、驚いた源頼朝は、源範頼へ命令書を出し、加藤景廉を療養させ、平癒したら、早く鎌倉に戻すように指示しています。
無事に鎌倉に戻ると、加藤景廉は源頼朝の側近として仕え、奥州・藤原氏の討伐でも武功があります。
1185年、源頼朝は恩賞として、加藤次景廉に美濃・遠山庄を与えています。

1193年、源頼朝は、安田義資を誅殺する際に、信頼できる加藤景廉と梶原景時に命じており、遺領の遠江国浅羽庄(袋井市)を追加で与えられました。
武藤頼平が奉行したとされます。





源頼朝の死後、1200年、北条氏の策略にはまった梶原景時が滅ぼされた際に、加藤景廉も連座しましたが、所領没収などは最小限だったようです。
1203年9月、比企能員の変では、北条時政の命を受けて、比企能員を謀殺した天野遠景と仁田忠常でしたが、今度は源頼家から北条時政暗殺を仁田忠常が命じられたため、北条義時が加藤景廉と子の遠山景朝を使って仁田忠常を謀殺しています。
また、比企館が焼け落ちる中、比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は、女装して抜け出しましたが、道中にて補足した加藤景廉が討ち取りました。
なお、源頼家は追放され、翌年、伊豆の修禅寺にて、23歳の命を散らしている。

その後も、和田合戦などでの活躍が認められて、加藤景廉も鎌倉幕府3代将軍・源実朝のときには、評定衆となりました。

和田合戦

その源実朝が、鶴岡八幡宮を参詣したとき、公暁が襲撃して殺害しましたが、この時、警護担当だった加藤景廉は、責任を感じて出家し覚蓮坊妙法と称しています。
1221年6月、承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まりましたが既に高齢であり、8月3日に死去しました。享年66。
家督は、嫡男・遠山景朝が継いでおり、加藤一族の墓所は、静岡県伊豆市牧之郷にあります。





なお、子の遠山景朝は、美濃・遠山荘(岐阜県恵那市)へ移ったようで、戦国時代には遠山景任などがいます。
豊臣秀吉の賤ヶ岳の七本槍の一人で、築城の名手である加藤嘉明も子孫となります。
伊達政宗の重臣・片倉小十郎(片倉景綱)も、先祖は加藤景廉だとしています。
小田原城の北条氏に従った、江戸城の遠山直景も、同じです。
また、江戸時代には、名奉行で知られる旗本・遠山景元(遠山金四郎、遠山の金さん)を輩出しました。

伊豆・加藤景廉一族の墓

静岡県伊豆市牧之郷には、加藤景廉一族の墓があります。

加藤景廉一族の墓

この付近には、昔、加藤氏の菩提寺と考えられる金剛寺があったとされます。
江戸時代の中期である天明5年(1785年)に、墓の下から加藤景廉の孫である善願上人(ぜんがんしょうにん)の蔵骨器(舎利瓶)が発見されました。
現在、加藤一族の墓として、6基の五輪塔が並べられていますが、昭和33年の狩野川台風によって、流失したのを集めたようです。

加藤景廉一族の墓

伊豆箱根鉄道の線路わきを通る、農道沿いにあります。
駐車場ありません。
道路は1.1車線で対向車とすれ違いできませんので、農家の皆様にご迷惑をお掛けしないよう通りすがりで撮影して退散致しました。
場所は、当方のオリジナル地図にて、ポイントしておきます。

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