新開忠氏・新開実重の解説~源頼朝に早期から味方した新開氏




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新開忠氏・新開実重とは

新開忠氏は、源頼朝が石橋山の戦いで敗れた際に、名前がみられる武将で、安房へ逃れたときにも従いました。
土肥実平の子ともされますが、謎の多い武将です。
ただし、新開実重と言う人物もおり、中村党の土肥実平の次男が新開実重であり、新開忠氏の養子になった可能性が高いです。
この新開実重は、新開荒次郎実重(しんかい-あらじろう-さねしげ)とも書きます。





新開実重も、石橋山の戦いには参じていたようで、箱根土肥の山中をにて、実父・土肥実平と共に源頼朝を助け、房総半島へ脱出する際には、土肥遠平と伊豆権現(伊豆山神社)に向かい、北条政子と大姫らに「頼朝公は無事」だと知らせる役目を果たしています。
北条政子らは、伊豆権現・別当である文陽房覚淵の世話を受けており、熱海の秋戸郷(あきとのごう)に隠れていたともされ、れています。

新開(しんかい)とは、その言葉の通り、新しく開発すると言う意味で、新田開発したものと存じますが、領地は武蔵国新戒(榛沢郷・大寄郷)(現在の深谷市) で、新開氏館があったと考えられます。
吾妻鏡では、新開荒次郎、新開弥二郎、新開左衛門の名がみられます。
深谷市新戒の大林寺に新開実重夫人の墓、東雲寺には新開実重の墓や位牌があるそうです。





1223年、承久の乱で、新開一族は、宇治川の戦に参じており、新開荒次郎が傷を負い、新開兵衛が討死したとあります。
南北朝時代には、細川氏の阿波守護代に、新開真行がおり、阿波・牛牧城を築きました。

以上のことくらいしか、新開忠氏と新開実重に関しては、わかりません。

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