二階堂行政の解説(わかりやすく2分で)~工藤氏の一族である高級官僚

目次 contents
  1. 二階堂行政とは

二階堂行政とは

二階堂行政(にかいどう-ゆきまさ)は、平安時代末期の武将で、工藤行遠の子となりますが、生没年は不明です。
母は、藤原季兼の娘(藤原季範の妹)になります。
母の兄弟・藤原季範は、尾張・熱田神宮の大宮司を務めまていました。
その藤原季範の娘・由良御前は、源義朝の正室となり、源頼朝を産んでいます。



そもそも「工藤氏」は、平安時代中期の貴族である藤原為憲の官職が木工助(木工頭)であったことから「工藤大夫」と称されたのが始まりです。
藤原為憲(ふじわら-の-ためのり)は、常陸介・藤原維幾の子でしたが、平将門との紛争に敗れて潜伏します。
しかし、平将門の討伐軍の大将のひとりとなって、平貞盛・藤原秀郷と共に、武功をあげました。
その恩賞として、従五位下に叙され、木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に任じられます。
更に、伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守となり、主に工藤氏は伊豆にて勢力を拡大しました。
工藤氏からは、伊豆での最大勢力となった工藤茂光工藤祐経などを輩出していますが、伊豆の工藤氏とは、だいぶ前から分かれていると考えられるのが、二階堂行政(工藤行政)の父・工藤行遠 (白尾三郎行遠、藤原行遠)と言う事になります。

父・藤原行遠(工藤行遠)は、保延年間(1135年~1141年)に、遠江国司を殺害した罪で、尾張に流配となっています。
その時、熱田大宮司・藤原季範の妹との間に、工藤行政(二階堂行政)が生まれたと言う事になります。

工藤行政の初見としては、下級官人として朝廷に仕えており、1180年、主計寮の主計少允に任じられています。
主計寮(しゅけいりょう)は、租税や地方財政を管轄する機関で、数学の知識が求められる役人の少允と言う事ですので、判官くらいに相当するでしょうか?

このように事務処理に長けていたようで、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、1184年には、公文所棟上げの奉行として工藤行政と三善康信の名前が見られ、別当・大江広元(中原広元)のもとで文官(公文所寄人)として仕えた模様です。



1189年7月、奥州征伐の際には、藤原泰衡の郎従・由利維平(由利八郎)を、宇佐美実政(大見実政)が生虜ると、奉行として、工藤行政が朝廷に書状で報告しています。

なお、奥州・藤原氏を滅ぼした源頼朝でしたが、平泉・中尊寺の建築物に驚き、鎌倉にも同じような建物を造営します。
この鎌倉・永福寺(ようふくじ)は、2階大堂になる壮大な建物となりましたが、造立責任者は工藤行政で、建立には畠山重忠らも尽力し、1194年に、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成しました。
この二階大堂は「二階堂」とも呼ばれ、工藤行政が、その永福寺の近くに住んだことから「二階堂氏」と呼ばれるようになったのが、始まりとされます。
<注釈> 鎌倉・永福寺は、鶴岡八幡宮勝長寿院と並ぶ大きな寺院でしたが、応永12年(1405年)に焼失し、永福寺跡は、現在、国指定史跡として保存・公園整備されている。

その後も、こまごまとした雑務の筆頭奉行として、二階堂行政の名が見られます。
政所の大江広元が、京に登って、鎌倉を不在すると、留守時の業務を統括したようで、民部大夫と呼ばれました。

源頼家の代になると、1199年、有力御家人による「十三人の合議制」が敷かれます。
この13人のメンバーに、二階堂行政も、名を連ねています。



また、二階堂行政の娘が、伊賀光季に嫁いで、伊賀朝光と、伊賀の方を産んでいます。
その伊賀の方は、鎌倉幕府2代執権北条義時の継室となり、1205年に、北条政村を出産しました。

二階堂行政の没年は不明ですが、1155年生まれの嫡男・二階堂行村(にかいどう-ゆきむら)も源実朝に使えています。
1164年生まれの次男・二階堂行光(にかいどう-ゆきみつ)は、北条義時の次席で政所の実務官僚の筆頭となっています。
北条政子の使者として朝廷に赴くなどの外交活動も見られ、以後、二階堂氏が、鎌倉幕府・政所執事を、ほぼ世襲しました。



二階堂氏は実務官僚として、鎌倉幕府・建武政権・室町幕府にも仕えて繁栄しており、戦国時代には、須賀川城の二階堂氏などが見られます。

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