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源媄子(竹御所)とは
源媄子 (みなもと-の-よしこ) / 竹御所(たけのごしょ)は、鎌倉時代の1202年、源頼家の娘として生まれました。
源鞠子とも書きます。
母の名前は諸説あり、源義仲の娘、美濃局(河野通信と北条時政の娘の子)ともされますが、比企能員の娘・若狭局が母親だと推測されます。
若狭局は、1198年に、源頼家の長男である源一幡を産んでいます。
その翌年、源頼朝が死去し、源頼家が、鎌倉幕府2代将軍に就任しました。
源頼家は、比企宗朝、比企時員(比企宗員)、中野能成、小笠原長経らの若者を近習にしています。
しかし、源媄子が産まれた翌年1203年、源頼家が病気で寝込んでいる間に、比企能員の変にて、北条時政らにより、比企能員が殺害され、比企ヶ谷の比企一族は滅ぼされました。
この時、母と考えられる若狭局と一幡は、共に逃げたともされますが、いずれにせよ、北条義時の郎党の襲撃を受けて、命を落としています。
北条義時の妻・姫の前も、比企朝宗の娘だったため、乱のあとに離別し、京都に登ると源具親と再婚したものと考えられます。
なお、源媄子 (竹御所・源鞠子) は、まだ幼ったこともあり、祖母・北条政子が保護したようです。
建保4年(1216年)3月5日、北条政子の命により、叔父の3代将軍・源実朝と、正室・坊門信子の養女(猶子)となりました。
1219年、異母兄の公暁が、源実朝を暗殺し、公暁も三浦義村によって討たれたため、源頼朝の血筋は、源媄子 (竹御所・源鞠子) だけとなっています。
1225年、北条政子が死去すると、鎌倉幕府において、女性実力者のトップとなり、葬儀や仏事を中心となって行ったため、御家人の尊敬を集めたと言います。
1226年、藤原頼経(ふじわら-の-よりつね)が、鎌倉幕府第4代将軍に就任。
<注釈> 幕府は北条家による執権政治となっており、源実朝が暗殺されたあとは、主に朝廷から征夷大将軍を迎えて、形だけ配した。
寛喜2年(1230年)12月9日、29歳だった源媄子 (竹御所) は、まだ13歳の第4代将軍・藤原頼経と結婚しました。
夫婦仲は良かったと伝わっおり、やがて懐妊しますが、1234年、北条時房邸にて、難産の末に男児を死産し、気を失っていた源媄子 (竹御所) も、4時間後に死去しました。享年33。
これにより、源頼朝と北条政子の直系は、断絶しています。
京都にいた鎌倉武士は、源氏・将軍の血筋が断えたことに動揺して、こぞって鎌倉に帰って行ったともあります。
翌年には、父・源頼家も、伊豆の修禅寺に幽閉されたあと、暗殺されました。享年23。
歴史に、if(もし)は、禁物ですが、源媄子 (竹御所) が無事に男子を産み、その男子が征夷大将軍を継ぐことになり、御家人からも期待されていた源媄子 (竹御所) が後見したら、その先は、また違った鎌倉幕府があったかも知れません。
その後、比企能員の屋敷があった場所には、1260年、比企能本が妙本寺を開基し、その中に比企一族の墓、一幡の振袖塚、若狭局の蛇苦止堂、源媄子の墓があります。
鎌倉・妙本寺の境内にある竹御所の墓は、奥まったところにありわかりにくいです。
妙本寺の本堂左手から山のほうに登る遊歩道があり、その登り坂を左手に向けて登って行くと比較的広い平坦地に墓地があります。
その墓地の一番奥のところが竹御所の墓がある場所となります。
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