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比企時員とは
比企時員 (ひき-ときかず)は鎌倉時代初期の武将で、御家人・比企能員の子。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の成田瑛基さんが若き比企時員を演じられる。
比企尼が源頼朝の乳母を務めていた縁で、父・比企能員(ひき-よしかず)は源頼朝から信頼された側近となっていた。
1182年、鎌倉・比企ヶ谷にある比企能員の屋敷にて、北条政子が源頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)を出産。
比企能員が源頼家の乳母父となっている。
1188年、万寿(源頼朝)が初めて鎧を着用して馬に乗った時から比企時員の名が見られる。
源頼家が開催した蹴鞠の会では、北条時房、源性、義印、紀行景らと比企時員の名も見られるため近習となっていたことが伺える。
1198年、兄弟(姉妹)にあたる若狭局が源頼家の妾となり、長男・一幡を産んでいる。
1199年、源頼朝の死後、十三人の合議制が敷かれた。
これに反発した2代将軍・源頼朝は、狼藉不問の特権を持つ5人(小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成)を、御家人らからの取り次ぎ役に任じた。
このように兄・比企宗員と共に選ばれている。
<注釈> 吾妻鏡ではもう1名が記載されておらず不明だが、北条時連(北条時房)だと考えられる。
1200年頃、名を比企宗員と改めた。
1201年、源頼家が猟犬を飼いはじめると、比企時員(比企宗員)が飼育係となっている。
1203年、源頼家が阿野全成を捕縛。
このとき、源頼家の命にて北条政子へ阿波局の引き渡しを要求したが、北条政子は拒否している。
その頃から、源頼朝はかなり体調を崩しており寝たきり状態となった。
そのため、つぎの将軍に源頼家の弟・千幡(源実朝)を擁立しようと考えた北条氏と、源頼家の嫡男・一幡につがせようとする源頼家・比企氏との対立は頂点に達した。
1203年9月、北条時政・北条義時が比企能員をだまして暗殺。(比企能員の変)
鎌倉の比企氏の館は襲撃され、多くの比企一族と共に、比企時員(比企宗員)も討死したとされる。
なお、比企時員の妻(足立遠兼の娘?)は、武蔵の正法寺(岩殿観音)に落ち延び、のち男児を出産したと伝わる。
生き残った比企氏は順徳天皇に仕えて存続したと言う。
弟と考えられる比企能本はまだ幼かったため、母(比企能員の妾)と共に和田義盛に預けられた。
北条義時の妻は、姫の前(比企朝宗の娘)であったため、悲しいことに離縁されたと考えられる。
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