小笠原長経をわかりやすく簡潔に解説~源頼朝の側近




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目次 contents
  1. 小笠原長経

小笠原長経

小笠原長経(おがさわら-ながつね)は鎌倉時代前期の武将で、1179年に甲斐源氏の一族・小笠原長清の子として生まれた。
通称は小笠原弥太郎。
母は藤原邦綱の娘?ともされる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の西村成忠さんが小笠原長経を演じられる。

兄弟は大変多く、八代長光、小田清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意などがいる。

甲斐・源氏の多くは、源頼朝によって粛清されたが、甲斐国巨摩郡小笠原郷(山梨県北杜市明野町小笠原)を領した小笠原氏は生き残っていた形となる。

1189年の奥州合戦では、父・小笠原長清に従い小笠原長経も東北を転戦した。
その後、小笠原長経は、鎌倉幕府・2代将軍である源頼家の近習として出仕。
主に流鏑馬の射手を務めたと言う。





1199年、源頼朝の死後、十三人の合議制が敷かれた。
これに反発した2代将軍・源頼朝は、狼藉不問の特権を持つ5人(小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成ら)を、御家人らからの取り次ぎ役に任じている。
<注釈> 吾妻鏡ではもう1名が記載されておらず不明だが、北条時連(北条時房)だと考えられる。

1199年8月、源頼家の命にて、中野能成・和田朝盛・比企宗朝・小笠原長経らは、安達景盛の愛妾を奪おうとして鎌倉の安達邸を包囲。
しかし、北条政子の説得を受けて中止している。

1203年9月、北条時政・北条義時が比企能員をだまして暗殺。(比企能員の変)
鎌倉の比企氏の館は襲撃され、多くの比企一族と共に、比企時員も討死したとされる。

このとき、小笠原長経は比企勢力とみなされて拘禁されたようで、鎌倉をあとにしたようだ。
以後、鎌倉幕府では、弟・伴野時長が信濃の小笠原氏の所領を押さえて重用され、弓馬術礼法小笠原流を発展されたようだ。

1205年、武田朝信の娘との間に小笠原長忠(松尾長忠)が誕生。

1221年、承久の乱で小笠原長清と小笠原長経は、武田信光らと鎌倉幕府軍の東山道軍として出陣。
小笠原長経ら兄弟8名も京に攻め上り、小笠原家は「七ケ国管領」となったほか、阿波国守護も兼ねた。

1223年、小笠原長経は家督を継承し、阿波国守護を受け継いでいる。
そして、1213年に生まれていた小笠原長経の次男・小笠原長房が、阿波・岩倉城を拠点として阿波小笠原氏の祖となり、戦国時代には三好氏などを輩出した。

出家すると小笠原入道と称しており、1247年5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている。
晩年は、信濃に戻って、伊那郡伊賀良荘の松尾に隠棲したともされる。

1247年11月5日に小笠原長経は死去。享年69。





のち、1285年の霜月騒動のあと伴野氏は没落し小笠原長忠の子孫が惣領の座に復帰した。

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