仁田忠常の解説【鎌倉殿の13人】北条氏に味方するも




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目次 contents
  1. 仁田忠常とは

仁田忠常とは

仁田忠常 (にった-ただつね)は、平安時代末期から鎌倉時代の武将で、伊豆国仁田郷(静岡県田方郡函南町)を与えられていました。
藤原南家流の仁田氏ですが、父・母は不詳です。
姓は「にたん」ともよみ、漢字は新田とも書きます。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、お笑いコンビ「ティモンディ」の高岸宏行さんが、仁田忠常を演じられます。
下記の写真は、伊豆・仁田館跡になります。

仁田忠常

仁田忠常(新田四郎忠常、仁田四郎忠常)は、治承4年(1180年)、13歳のときに、源頼朝の挙兵に加わり、山木判官・平兼隆邸の夜襲にて初陣。
そして、鎌倉幕府樹立・平家討伐に尽力して行きました。

1185年には、源範頼に従って転戦し、特に西海(九州)で戦功があり、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・比企朝宗・比企能員らと、源頼朝から感状を受けています。





文治3年(1187年)、20歳の仁田忠常が、重病となって死の淵をさまよった際には、源頼朝が自ら、病気見舞いをしていることから、信頼も厚かったことが伺えます。

文治5年(1189年)、奥州の藤原氏攻めでも活躍し、1193年、愛甲三郎らが負傷した、曾我兄弟の仇討ちでは、源頼朝暗殺とも思える寝所侵入を防ぐため、兄の曾我祐成(曽我十郎祐成)を討ち取っています。
下記は、白糸の滝からほど近くで、曾我祐成を討ち取った場所ともされる、曽我八幡宮。

曽我八幡宮

また、仁田忠常は、富士の巻狩での猪退治といった、富士山の人穴探検などエピソードが多くあります。

源頼朝が亡くなると、引き続き、鎌倉幕府2代将軍・源頼家に仕えます。
そして、源頼家の嫡男・源一幡が生まれると、仁田忠常が乳母父となりました。

建仁3年(1203年)9月2日、源頼家が危篤になり、比企能員の変(比企の乱)が勃発します。
この時、仁田忠常は、北条時政の命に従い、北条時政邸に呼び出された、比企能員を、天野遠景と共に謀殺しました。
その後、比企一族は、ことごとく処罰されています。





それから3日後の9月5日、源頼家の病が回復すると、今度は逆に、源頼家から、北条時政討伐の命を和田義盛と共に受けます。
和田義盛はこれを北条時政に報告して内通します。
しかし、仁田忠常はあいまいな態度を示しており、翌晩、源頼家の特命を受けつつ、比企能員を討取った恩賞を受けに、北条時政の名越邸へ向かいました。
ところが、夜になっても、なかなか屋敷から、出てこないめ舎人が不審に思って、仁田屋敷に戻り、弟・仁田五郎と仁田六郎(仁田忠時)に報告します。
弟らは、将軍・源頼家が、北条時政の追討を命じたのが、漏れて、兄・仁田忠常が、討たれたと勘違いしたようで、急ぎ北条義時邸に駆け付けたため北条家によって討ち取られました。

この時、仁田忠常は、名越邸を出て、屋敷に戻る途中だったようで、弟らが討ち取られたと知ると「もはやこれまで、こうなっては命を捨てよう」と、御所に参上しようとしたため加藤景廉によって討たれました。享年37。

この混乱の中では、堀親家、工藤行光と言った御家人も、命を落としています。





伊豆半島の入口にあたる、静岡県函南町仁田には、 現在、仁田家があります。
そこが、仁田忠常の館跡で、敷地内に墓も残されていますが、見学の際には、失礼の無いようにお願い申し上げます。

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