伊東祐清をわかりやすく3分で解説~八重の兄で源頼朝を逃がすも(鎌倉殿の13人)




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目次 contents
  1. 伊東祐清とは

伊東祐清とは

伊東祐清(いとう-すけきよ)は、平安時代末期の武将で、伊豆の豪族・伊東祐親の次男。
伊東祐兼、伊東祐長、伊東祐氏、伊東祐忠とも書き、通称は伊東九郎。
母の名や生没年は不詳。
兄に河津祐泰、妹に八重姫がいるほか、姉かどうかは不明だが、万劫御前も兄弟。

伊東祐清

源頼朝が伊豆に流罪となった際、最初は、伊東荘にいた可能性もあり、伊東祐清は知遇を得たと考えられる。
そのためか、伊東祐清は、比企尼の3娘を妻とした。
<注釈> 比企尼は、源頼朝の乳母で、伊豆で経済支援も行っていた。

父・伊東祐親が大番役で京にいて、伊豆を留守していた際に、妹・八重姫が源頼朝と結ばれ、千鶴丸という男子をもうけたとされる。
1175年9月、京から戻った父・伊東祐親は、激怒し、千鶴丸を殺害したほか、八重姫を江間小四郎に嫁がせた。
更には、源頼朝も、殺そうと計画したため、伊東祐清は、源頼朝に危険を知らせたとされる。
こうして、源頼朝は走湯権現(伊豆山権現・伊豆山神社)へ逃れ、のち、北条時政の北条荘にて、生活したものと考えられる。
曽我物語では、源頼朝が、伊東祐清の烏帽子親を務めたともあり、北条時政を頼るように勧めたとある。
<解説> 烏帽子親(えぼしおや)と言うのは、元服の儀式を行った際に、偉い人(身分の高い人)に、仮の親になってもらい、頭に烏帽子を被せてもらい、成人したことを認めてもらうもの。この仮親のことを烏帽子親と言う。
なお、源頼朝から離された八重姫は、江間小四郎に嫁いだとされる。





この父への反逆とも取れる、源頼朝を逃がしたことからか?、伊東祐清は、叔父・狩野茂光に預けられていた時期があるようだ。

なお、伊東荘は、かつて工藤祐経が領主であり、父・伊東祐親が後見していた。
しかし、本来の嫡流は、父・伊東祐親であったことから、工藤祐経が平氏に仕えて上京している間に、父・伊東祐親が、伊東荘を横領し、工藤祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前も離縁させ、土肥遠平に再嫁させている経緯があった。
そのため、京にて恨みを忘れない工藤祐経は、父・伊東祐親の暗殺を計画した。

安元2年(1176年)10月、命を受けた、大見成家(大見小藤太)と八幡行氏(八幡三郎行氏)が、伊東祐親の暗殺を実行。
父・伊東祐親は無事だったが、兄・河津祐泰が射殺されてしまった。

なお、夫・河津祐泰を亡くした妻(横山党・横山時重の娘)は、幼子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟を連れて、曾我祐信に再嫁。
この兄弟が、のちに曾我兄弟として、世に知られる事になった。

大きく疑問に感じるのは、なぜ、長男・河津祐泰の遺児に、河津氏を継がせることをしなかったのか?
曽我氏の養子になっても、曽我氏を継げる立場にもなっていない。





いずれにせよ、次男だった伊東祐清は嫡子として伊東荘に戻されると伊東九郎と称し、伊東荘を継ぐ立場となっている。

それから4年後、源頼朝が挙兵したが、父・伊東祐親は、平氏勢の大庭景親らに味方し、石橋山の戦いにて、源頼朝らを挟み撃ちして勝利した。
恐らく、伊東祐清も父に従っていたことだろう。

しかし、房総に逃れた源頼朝は、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠ら味方を増やして鎌倉を占拠。
最初は、平氏側だった坂東武士も、多くが源頼朝のもとに走り、伊東氏は、逆に追われる立場となった。
平清盛が追討軍を派遣したため、富士川の戦いになる直前くらいの、1180年10月19日(11月8日)、伊東氏は、伊豆から船を出にて平維盛と合流図ったが、伊東祐親・伊東祐清の父子は、源氏側の天野遠景(工藤氏一族とれさる)によって捕らわれてしまった。

その頃、富士川の戦いでは、平氏が大敗北を喫し、形勢は逆転。
父・伊東祐親は、娘婿である三浦義澄に預けられたため、伊東祐清も同様だと考えられるが、捕らわれの身となった。





その頃、源頼朝の正妻・北条政子が懐妊したため、三浦義澄が助命を願い出ると、伊東氏は、命を許された。
荻野俊重、曽我祐信なども許されている。
しかし、父・伊東祐親は、かつて源頼朝を殺害しようとしたこともあり「以前の行いを恥じる」と言って、自害したと言う。

源頼朝は、残された伊東祐清に対して、かつて自分を助けた事もあり、逆に「恩賞」を与えようとした。
しかし、伊東祐清は、父が頼朝の敵となって自刃した以上、その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして拒否。
その後に関しては、諸説あるが、下記の通り、ご紹介したい。

牢から解き放たれた伊東祐清は、平家に味方するために上洛したとれされ、吾妻鏡によると、平氏勢として北陸方面で、木曽義仲らと戦い、討ち死にしたとある。
ただし、同じ吾妻鏡では、伊東祐親が自害した際に、伊東祐清も、自ら死を願ったため、処刑されたとも記載されている。

なお、平家物語(覚一本)では、篠原合戦で伊東祐氏(伊東九郎祐氏)が討ち死にしたとある。
篠原の戦い(しのはらのたたかい)は、1183年6月1日に、平維盛と木曽義仲が、加賀・篠原にて戦ったもの。
しかし、僧侶になるなどして、生き延びたという話もある。





妻だった比企尼の娘(名前不詳)は、平賀義信に再嫁することになり、子の平賀朝雅を設けたほか、姉(比企尼の次女)と一緒に、源頼家の乳母も務めた。

伊東荘は、工藤祐経が取り戻した。
そして、兄・河津祐泰の遺児である曽我兄弟は成長すると、工藤祐経を闇討ちするのである。

同じ次男でも、執権へとなった北条義時と比べると、伊東祐清は、かわいそうな運命だったと言えよう。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の竹財輝之助さんが、伊東祐清を演じられる。

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