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小山朝政
小山朝政 (おやま-ともまさ) は、平安時代末期の武将で1155年頃、下野・小山荘の領主である小山政光の子として生まれた。
母は不明だが、父の継室は八田宗綱の娘・寒河尼。
小山氏は平将門の乱を鎮圧した功労者・藤原秀郷の子孫となる。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の中村敦さんが小山朝政を演じられる。
1180年、伊豆の源頼朝が挙兵した際、小山氏初代の父・小山政光は京にて大番役を務めていた模様。
そのため、源頼朝の乳母も務めていた後母・寒河尼が弟・結城朝光を連れて、房総に逃れた源頼朝を訪ねて、小山氏は鎌倉勢に味方するようになったとされる。
ただし、本拠地が下野(栃木)と少し遠方だったため、富士川の戦いなどに参じることはできなかった模様だ。
1183年2月23日、反・源頼朝の志田義広(源為義の3男)が蜂起すると、小山朝政は下河辺行平・下河辺政義・八田知家・下妻淸氏・小野寺道綱・小栗重成・宇都宮信房・鎌田爲成・湊川景澄・結城朝光・長沼宗政・源範頼らと、野木宮の戦いで撃破している。
敗れた志田義広は木曾義仲を頼って逃れた。
<注釈> 源頼朝の弟である源範頼が初めて登場する合戦でもあり、小山朝政が源範頼を匿っていたとする説もある。
1184年、平家追討ま軍勢を発した際に、小山朝政は源範頼の軍勢に加わるよう命じられ、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすのに貢献。
九州方面での戦いでは、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員らが源頼朝より感状を受けている。
京にて源義経が鎌倉に無断で左衛門少尉の任官と檢非違使の宣旨を受けた際に、小山朝政は兵衛尉を望み任官を受けた。
そのため、源義経や任官を受けた御家人らは、鎌倉への帰国を許されなかったが、6ヶ月後、小山朝政は許されている。
以後、小山朝政は源頼朝の上洛時の御家人の中で筆頭の扱いを受けるなど、鎌倉幕府では宿老として君臨して行く。
1189年、藤原泰衡の討伐となった奥州征伐では、弟の長沼宗政・結城朝光らと小山朝政も参陣し、藤原国衡を破る武功を挙げている。
また、出陣に際して、千葉常胤が献上した源氏の白旗の絹は、下野・小山城主である小山朝政が調達したとされる。
吾妻鏡によると、1194年10月9日、源頼朝が小山朝政の鎌倉での屋敷を訪ねている。
この時、小山朝政や兄弟から、藤原秀郷の一族である小山氏に伝わる流鏑馬の作法を聴取したようで、中原仲業が記録として残した。
流鏑馬の流派は藤原秀郷にその始めがあると伝えられていて、頼朝は鎌倉で流鏑馬をするにあたり、秀郷流流鏑
こうして、下野国司と下野守護を兼務する栃木最大勢力となり、1199年には播磨守護にも任命されるなど有力御家人として重きをなした。
また、弟・結城朝光が梶原景時の讒言にて窮地になった際には、梶原景時を訴える連署状にも名を連ねた。(梶原景時の変)
1221年、承久の乱では、鎌倉幕府の宿老として、北条義時・大江広元・三善善信・二階堂行村・八田知家・宇都宮頼綱らと鎌倉の守備に務めた。
1226年ごろ出家したようで、1238年、小山朝政は死去。享年84。
長男・小山朝長は先の1229年に亡くなっていたようで、小山朝長の子・小山長村が小山氏4代当主として見られる。
なお、鎌倉時代の下野守護は一貫して小山氏が世襲している。
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