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天野遠景とは
天野遠景(あまの とおかげ)は、平安時代末期の武将で、藤原南家工藤氏の一族、藤原南家為憲流ともされます。
天野氏の出自には諸説ありますが、父は、藤原景光とされ、1141年に、鎌倉にて、天野遠景が生まれたともされます。
この父とされる藤原景光 (藤原藤七郎景光)の父は藤原遠兼(入江左近大夫)であり、その藤原遠兼の子に武蔵国足立郡の足立遠元がいます。
一時期、天野遠景は、足立遠元の猶子になったともされます。
また、藤原遠兼の弟は安達盛長(藤九郎盛長)ともされますが、この足立氏、安達氏、天野氏だけでなく、工藤氏も、系図がハッキリしない箇所があり不明瞭の部分が多いです。
養子で入ったり、出されたりしていたものと考えられます。
例えば、工藤氏には、工藤行光の父・工藤景光がおり、源頼朝の挙兵時から従っています。
工藤氏はもともと藤原氏ですので、この工藤景光は、藤原景光と呼ばれても、間違いではありません。
しかし、工藤行光の父・工藤景光と、天野遠景の父とれさる藤原景光が、同一人物なのかは不明といったところです。
いずれにせよ、天野遠景は、1167年頃、伊東祐親に預けられていた、源頼朝と狩や相撲などの交流が見られ、その頃、は、伊豆国田方郡天野郷を本貫地にしていたようです。
天野郷は、伊豆長岡温泉のあたりで、北には北条荘の北条時政、南には狩野城の狩野茂光(工藤茂光)がいると言う感じの場所になります。
なお、天野遠景は天野藤内、伊豆藤内とも呼ばれています。
この藤内の意味としては、天野遠景は、内舎人に任官していたため、通称・天野藤内を称したと言えます。
内舎人(うどねり)と言うのは、天皇がいる朝廷(宮中)に宿衛し、雑使や警護を行う役目であり、平安時代には、そんなに身分が高くない者が就いていたようです。
そして、出身により源内、平内、藤内などと称したため、天野遠景は藤原氏を祖にもつと言う事が言えます。
比企朝宗も、藤内を称しています。
天野遠景の妻は、狩野茂光の娘であり、1170年、天野遠景は、伊豆の狩野茂光(工藤茂光)に従って、伊豆大島で暴れていた源為朝の討伐に加藤景廉らと参じてもいます。
源頼朝が挙兵前に打ち明けた信頼できるメンバーが、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美佑茂・佐々木盛綱・加藤景廉となりますが、天野遠景もそのひとりでした。
1180年、源頼朝が挙兵すると、天野遠景と子の天野政景は、狩野茂光(工藤茂光)らと共に参じましたが、石橋山の戦いにて敗北します。
その後、伊豆に戻っていたとみられ、富士川の戦いの際に、平氏に合流しようとした伊東祐親を捕縛しました。
1183年、源頼朝が木曾義仲との交渉で、派遣した使者に天野政景もおり、木曾義仲の嫡子・木曾義高を人質にして和睦することに成功しています。
このように鎌倉幕府にて、天野政景は重要な仕事をしており、1184年には、鎌倉に招いた一条忠頼を、源頼朝の命にて、宴の最中に天野遠景と小山田有信が暗殺しています。
平氏討伐では、源範頼の軍勢に加わり、周防国から豊後国へ渡り、1185年末には、源義経にかわって鎮西奉行人(九州惣追捕使)となり、平家の勢力が強い九州を鎌倉幕府の支配下に置くことにも務めました。
鎮西奉行の宇都宮信房と、鬼界ヶ島の平氏残党を討伐(貴海島征伐)もしています。
天野遠景は九州・大宰府近くで、10年近く鎌倉幕府の統治を進めましたが、土豪や寺社の反発が強く、1194年頃までには職を解任されると、本貫の伊豆・天野郷に戻ったとされます。
1199年、源頼朝が亡くなると、天野遠景は出家して天野遠景入道蓮景と号しました。
しかし、活動は引き続き見られ、1199年、梶原景時の変では66名の糾弾連判状に、工藤行光・中原仲業などと共に天野遠景入道の名があります。
また、1203年、比企能員が暗殺された際には北条時政の命に従い、天野遠景、仁田忠常らが比企能員を切りました。
恩賞が少なかったのか、1207年、天野遠景は自身の勲功11ヶ条を北条義時に提出し、恩賞を望んだと吾妻鏡にあります。
天野遠景の没年は、1208年で、享年63歳とも諸説あり。
なお、天野遠景の子・天野政景は、1221年、承久の乱で活躍し長門国守護となり、遠江国周智郡山香荘(静岡県浜松市)や、信濃国、相模国などに多くの所領を持ちました。
戦国時代には、今川家に従っていた犬居城主・天野景貫や、毛利元就に従った安芸・米山城の天野隆綱などがいます。
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