安達景盛をわかりやすく解説【鎌倉殿の13人】源頼家と対立し妻(ゆう)を奪われる?




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目次 contents
  1. 安達景盛とは

安達景盛とは

安達景盛(あだち-かげもり)は鎌倉時代初期の御家人で父は源頼朝の側近を務めた安達盛長になる。
母は丹後内侍(たんごのないし) ※比企掃部允と比企尼の長女

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では安達景盛役として幼い頃(安達弥九郎)を渡部澪音さん、大人の安達景盛を新名基浩さんが演じられた。

1199年に源頼朝が亡くなったあと、父・安達盛長(安達藤九郎盛長)は出家し連西と称した。
なお、鎌倉幕府2代将軍に源頼家が就任するが、安達景盛(安達九郎景盛)は側近にも選ばれていないため、仲が悪かったとされている。





それから数ヶ月後、吾妻鏡によると江達景盛は京から美貌に優れた妾を鎌倉に呼び寄せた。
この女性は武藤頼佐の娘とされ、安達景盛の妻となるが史実での名は伝わっていない。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では便宜上「ゆう」と言う名前で安達景盛の妻が登場し、俳優(女優)の大部恵理子さんが演じられた。

それから数ヶ月後の1999年7月16日、鎌倉殿の命にて安達景盛は、三河の御家人・室重広の横暴を問いただすため鎌倉を発った。
当初、安達景盛は大好きな妾と離れたくなかったのでこの派遣を固辞したが、三河国は安達家の領地でもあっため、断り切れず出発したようだ。

鎌倉の安達盛長屋敷跡

そして、7月20日、源頼家は側近の中野能成に命じて、安達景盛の妾「ゆう」を連れ出し、同じく側近の小笠原長経の屋敷に拉致した。

吾妻鏡には、普段から色好みな性格を抑えられない源頼家が、何度も艶文(恋文)を出して、その使いが何度も通ったが、一向に良い返事がないので、このような力ずくを行った旨記載している。

更に源頼家は7月26日になって、安達景盛の妾を御所の北側の建物に呼びつけて住むように命じた。
そして、側近の小笠原弥太郎長経、比企三郎、和田三郎朝盛、中野五郎能成、細野四郎の以上5人以外は、この建物へ来てはいけないと命じている。

8月18日、室重広(室平四郎重広)を捕まえられず安達景盛が三河から鎌倉に戻ったが、将軍に恨みを持っていると告げ口をした者がいたと言う。
そのため、源頼家は、小笠原長経、和田朝盛、比企宗朝、中野能成、細野四郎に軍を出動させて安達景盛を討てと命じたと言う。

安達景盛の留守を狙った所業であり、知らせを聞いた御台所・北条政子は急いで玉縄にある安達盛長の屋敷へ向かい、二階堂行光を使者として源頼家に向かわせた。

「攻め滅ぼすつもりなら、まず私に向かって矢をあててからにしなさい。」

これで源頼家は諦めたが、北条政子はそのまま安達盛長の屋敷に宿泊し「野望を持っていないのなら、誓約書を源頼家に差し出しなさい」と言って、安達景盛に起請文を提出させ騒ぎを収めた。

誓約書は佐々木盛綱が使いとなって源頼朝に提出した。
安達景盛の妾が解放されたのか?までは吾妻鏡では触れていないが、安達景盛に戻されたと考えてよいだろう。
のちの1210年、武藤頼佐の娘(よし)は、嫡男・安達義景を産んでいる。

1200年、父・安達盛長が死去しているので、安達景盛が家督を継いだようだ。

1203年、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、源頼家は将軍職を追われて、伊豆・修禅寺に幽閉された。
源頼家の安達氏への恨みは残っており、幽閉直後にも母・北条政子に手紙を出して、安達景盛を処罰するよう訴えている。
そして、北条義時の刺客によって、源頼家は温泉に入っていたところを暗殺された。享年23。

安達景盛の母とされる丹後内侍が以前に産んでいた異父兄弟・島津忠久は、比企氏の縁戚として連座となり所領没収された。
ただし、安達景盛は特に咎めは無く、新たに3代将軍として擁立された千幡(源実朝)の元服式に、大江広元・小山朝政・和田義盛・中條家長らと出席している。

その後、安達景盛は北条政子から信頼された側近となっている。

1205年、畠山重忠の乱では先陣を二俣川の戦いを戦った。
この時、安達景盛の郎党としては、野田与一、加治次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次などが見受けられる。
そして、北条時政と牧の方の牧氏事件のあと、北条義時が執権になると鎌倉幕府の重要御家人として地位も高めて行った。

1218年、源実朝が右近衛少将に任じられた際に、御家人の中では安達景盛が最初に御前に出て秋田城介に就任している。

また、安達景盛の娘・松下禅尼(まつしたぜんに)は、北条時氏の正室となった。
<注釈> 北条泰時の長男が北条時氏。

1219年、公暁によって源実朝が暗殺されると、安達景盛は出家し高野山に入った。
そして、源実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立し、高野入道と称されている。
子の安達義景が家督を継いだが、安達景盛は高野山から幕政に参与した。

1221年、承久の乱になると、鎌倉幕府の方針決定に加わり、尼将軍・北条政子が鎌倉御家人たちに源頼朝以来の恩顧を訴えた演説文は、安達景盛が代読した。

そして、北条泰時の軍勢に加わり、後鳥羽上皇に勝利すると摂津国の守護となっている。





1225年、北条政子が死去するとまた高野山に籠もったが、3代執権・北条泰時とは引き続き緊密であった。
また、北条泰時の嫡子・北条時氏と安達景盛の娘・松下禅尼が北条経時を産んだため、安達景盛は幕府での権勢を強めた。

1230年、北条時氏が28歳で病死すると、出家した安達景盛の娘は松下禅尼と呼ばれた。
松下禅尼は、北条経時、北条時頼、北条為時らを産んでおり、北条経時が4代執権、北条時頼が5代執権となっている。
このように安達氏は鎌倉家執権の北条氏外戚として大きな力を持った。

1247年、5代執権・北条時頼と有力御家人である三浦氏が対立すると、安達景盛は老齢の身ながら高野山から鎌倉に戻っている。
宝治合戦でも先陣を切って三浦一族500余名を滅亡に追い込んだが、ことあるごとに裏切る三浦泰村を排除したい北条氏の思惑と一致したと言う事であろう。

そして1248年5月18日、安達景盛は高野山で死去。





こうして安達氏は最盛期を迎え、北条時頼の子で松下禅尼の孫にあたる北条時宗は、松下禅尼の甘縄邸で生まれると、のち8台代執権として蒙古襲来に対応した。

1285年、8代執権・北条時宗の死後、9代執権・北条貞時の時代に、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化した霜月騒動にて安達一族も全国で討たれ、安達氏の主流は滅亡している。

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