三浦胤義のちょこっと解説~後鳥羽上皇ら味方した鎌倉御家人




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目次 contents
  1. 三浦胤義とは

三浦胤義とは

三浦胤義(みうら たねよし)は、鎌倉時代前期の武将で1185年頃に生まれたようだ。
父は三浦義澄で母は伊東祐親の娘。
兄に三浦友澄、三浦義村、三浦重澄がいる。

主に兄・三浦義村に従い、1205年には畠山重忠の乱、牧氏事件に名が見られる。





1213年、同じ三浦一族の和田義盛の乱とにると、最初は兄・三浦義村と和田側に盟約を結びつつも寝返って北条義時に味方。
和田義盛の旧領であった上総国伊北郡(勝浦市など)の領地を得た。

三浦胤義の妻は一品房昌寛の娘(源頼家の右筆である僧侶・昌寛の娘)。
この一品房昌寛の娘は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の妾だった一品房昌寛の娘と同一の女性ともされ、源頼家が修禅寺で暗殺されたあと、三浦胤義の妻になったと言う。
この一品房昌寛の娘は、源頼家の3男・栄実と4男・禅暁(ぜんぎょう)を産んでいる。
なお、三浦胤義の娘が北条政村の妻になっている。(三浦重澄の娘とも)

1219年正月、鶴岡八幡宮で公暁が源実朝を暗殺すると、禅暁は公暁に荷担したとの嫌疑を受けている。
1220年4月14日、禅暁は京の東山あたりで誅殺された。
この処遇に三浦胤義は不満を持ったと考えられ、北条義時と反目すると後鳥羽上皇から検非違使(けびいし)に任じられ京に上った。
一品房昌寛の娘や子らも京に行ったと言う。

そして大番役の任期が切れても藤原秀康に誘われて京に滞在していたようで、1221年、後鳥羽上皇が倒幕の決意を固めると三浦胤義は朝廷側ついた。
兄・三浦義村を誘ったがその書状を三浦義村は北条義時に渡したと言う。

そして、京では検非違使判官・三浦胤義のほかに御家人の尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、京都守護・大江親広(大江広元の子)らも朝廷側についたが、後鳥羽上皇の招聘に応じなかった伊賀光季(伊賀朝光の子) は拒否。
そのため、1221年5月15日、伊賀光季は襲撃されて命を落とした。
これにより鎌倉幕府は兄・三浦義村を大将に大軍を派遣し承久の乱となった。





三浦胤義らは美濃国摩免戸(岐阜県稲葉町)にて防衛するも敗走し、鎌倉幕府勢が京になだれ込むと6月15日には東寺で、兄・三浦義村と対峙した。
このとき、三浦胤義は幼子に一目会おうと太秦に向かい、子の三浦胤連、三浦兼義とともに太秦にある現在の木嶋坐天照御魂神社付近で自害した。
この三浦胤義を兆対勢の中心人物と見なされている。
朝廷の動きや西国御家人を監視するため、鎌倉幕府は六波羅探題を設置した。

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