矢部禅尼の解説~執権・北条氏に味方し三浦一族を存続させた強い女性




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矢部禅尼とは

矢部禅尼(やべ-ぜんに)は、鎌倉時代の女性で、1187年に生まれました。
父は、衣笠城主・三浦義村で、三浦泰村・三浦光村の姉にあたります。





父・三浦義村は、三浦党の棟梁で、鎌倉幕府において、源頼朝をおおいに助けていました。
そのためか、1194年2月、北条義時の長男(庶長子)である、北条泰時が13歳で元服した際に、源頼朝は三浦義澄を呼び、三浦氏から良い娘を、北条泰時(北条頼時)と結婚させるようにと命じました。
ただし、すぐに結婚と言う事にはならず、8年後の1202年8月23日に、三浦義澄の嫡男である三浦義村の娘・矢部禅尼が、北条泰時(北条頼時)に嫁いでいます。

なお、矢部禅尼(矢部尼)と言う名前は、出家後に呼ばれていた名称となり、三浦義村の娘の正式な名前は不詳です。
三浦義村の娘は、他にも土岐光定の正式、毛利季光の正室、千葉秀胤の正室になど、姉妹がたくさんおられますので、ご紹介の都合上、唯一伝わっている矢部禅尼と言う名称を全編にて使用させて頂いております。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、三浦義村の娘・初(はつ)が、幼子のうちから新垣結衣さん演じる八重に預けられて、金剛(のちの北条泰時)と一緒に面倒をみてくれと言うストーリー展開になっています。(2022年4月24日放送)
そのため、初は成長すると矢部禅尼になるとも推測されます。





矢部禅尼が結婚した翌年、1203年には、北条時氏(ほうじょう-ときうじ)が誕生しています。
しかし、理由が不明ながら離縁したようで、北条泰時(北条頼時)の後妻(継室)である安保実員の娘が、1212年には、次男・北条時実を産んでいます。

離縁した矢部禅尼(矢部尼)は、三浦一族で、佐原城主の佐原盛連に再嫁しました。

佐原城

そして、蘆名光盛・加納盛時(三浦盛時)・新宮時連の3人を少なくとも出産した模様です。
1233年、夫・佐原盛連が無くなると、三浦・矢部郷にて出家したようで、法名を禅阿・矢部禅尼と称しました。

1237年6月、鎌倉幕府は、亡き夫・佐原盛連の遺領・和泉国吉井郷を、矢部禅尼に与えており、11歳で元服したばかりの孫・北条時頼が矢部郷に、使者としてやってきて伝えました。





1247年、執権・北条時頼と安達景盛の策謀にて、三浦家の当主・三浦泰村は鎌倉にて挙兵し「宝治合戦」となります。
このとき、三浦一族の多くは、三浦泰村に従いました。
しかし、母が明確に矢部禅尼だとわかっている蘆名光盛・加納盛時(三浦盛時)・新宮時連(会津時連)と、母が不明の子(先妻の子?)、佐原経連、比田広盛、藤倉盛義、猪苗代経連らは、北条時頼に味方しています。
恐らくは、矢部禅尼の孫にあたる北条時頼を支援するよう、矢部禅尼から子供たちへの命があったものと考えられます。
実際に、佐原氏の大半も三浦泰村と行動を共にしましたが、敗れた三浦泰村は、妻子や一族郎党の約500名と共に、鎌倉の法華堂にて自刃しました。

鎌倉の三浦一族の墓

この結果、矢部禅尼の子供たちの佐原氏は、三浦一族で、唯一生き残ったとも言え、加納盛時は、のちに三浦姓を名乗ることを許されて、三浦家を再興しています。

1256年(康元元年)4月10日、矢部禅尼は不食の所労にて死去。享年70。
<注釈> 所労とは、疲れ・病気の事。
執権・北条時頼は、祖母の死にあたり、50日間の喪に服しています。

矢部禅尼が離縁した理由?

それにしても、矢部禅尼(矢部尼)は、なんで、北条泰時(北条頼時)と離縁したのでしょう?
とても、気になりまして、可能な限り、調べてみました。





まず、北条泰時ですが、御成敗式目を制定し、評定衆という合議機関も設置した有能な執権です。
評定衆には、矢部禅尼の父・三浦義村も加わっています。
更に、北条泰時の娘が、三浦義村の子・三浦泰村に嫁いでいます。
すなわち、三浦家は、北条氏の一門衆にもなっており、北条氏との関係は良好でした。
しかし、1203年~1206年の間くらいに、矢部禅尼と北条泰時は離縁になったと推測できますが、なぜ、離縁になったのかは、追加で調べても、わかりませんでした。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもある程度想像豊かに描かれる事と推測しておりますので、とても楽しみですが、もし、何か新しいことがわかりましたら、追記したいと存じますが、皆様からの情報もお待ち申し上げております。

北条氏に味方させた理由?

1247年、三浦一族は、結果的に、北条氏から粛清されてしまいますが、明確にこじれだしたのは、1213年の和田義盛の乱からとなります。
それより前に、矢部禅尼は離縁していることや、再嫁した佐原盛連との間の子供たちには、三浦氏の敵となっていた北条氏に最後まで味方させており、引き続き矢部禅尼と北条氏との関係は、良好だったとしか言いようがありません。
子供たちの盛時・時連の「時」の字も、北条泰時からの偏諱である可能性もあります。
いつ、名を授かったのかは不明ですが・・・。

これらの恩から、単純に、矢部禅尼の子である北条時氏の後継者になった北条時頼を助けるためとも推測できます。
ただし、北条時頼は、安達景盛の娘・松下禅尼が産んだ子です。
この安達景盛も、三浦打倒の強硬派ですので、逆に、矢部禅尼が北条時頼に味方する理由は、不透明です。





1247年の宝治合戦では、鎌倉・鶴岡八幡宮の鳥居前に「三浦泰村と一族が反逆する」と、何者かによって立札が建てられます。
そのため、三浦泰村は、謀反のつもりが無いことを証明するため、武装解除したのですが、その時に狙っていたかのように、北条時頼と安達義景ら鎌倉勢が三浦勢を襲撃した次第です。

ちなみに、毛利季光は、最初、北条時頼のもとへ駆けつけようとしました。
吾妻鏡によると「甲冑を着し、従軍を卒して御所に参らんがために打ち出ずるところ」とあり、妻(三浦泰村の娘)に、鎧の袖をつかまれて「私の兄(三浦泰村)を捨てて、時頼につくとは何事か」と詰め寄られた結果、三浦泰村に味方したことで、三浦一族と一緒に滅んでいます。(千葉秀胤も滅んでいる)

となりますと、確証はありませんが、矢部禅尼は、北条得宗家の誰かから?か、内密に、三浦氏を滅ぼすかもしれないから、その時は、北条家に味方すれば、悪いようにはしないと言った、情報を、事前に得ていたのかも知れないと感じました。
佐原氏の子供たちと共に、北条氏に味方することが、矢部禅尼の血を引く子供や孫の全員が、生き残る道だったとも言えます。
ただし、もちろん、大変苦渋な判断だったことでしょう。

毛利氏は、遠方の越後にて、三浦氏の乱に加わっていなかった毛利一族から、のち戦国大名となる毛利元就を輩出しました。





矢部禅尼の判断は、北条氏側につくと言う事で、佐原氏系統が、三浦氏を相続し、相模・三浦氏は戦国時代・江戸時代にも存続しました。
また、横須賀市の名前の由来となった横須賀氏、美作・高田城の三浦貞宗、会津・黒川城の葦名氏、秋田・角館城の蘆名義広など、三浦一族が繁栄にも寄与したと言えます。

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