北条宗時が1分でわかりやすい解説「鎌倉殿の13人」片岡愛之助さんが演じられる




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目次 contents
  1. 北条宗時

北条宗時

北条宗時 (ほうじょう むねとき) は、平安時代末期の武将です。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条宗時を俳優の片岡愛之助さんが演じられますので、とても楽しみです。
北条宗時は、伊豆・北条荘の領主・北条時政の嫡男として生まれました。
母は不明ですが、父・北条時政の最初の正室・伊東祐親の娘(八重姫の姉妹)だと考えられます。
兄弟には、北条政子、北条義時、北条時房、北条時子、阿波局などがいます。





父・北条時政は、蛭ケ小島に流刑となっていた源頼朝の監視役(世話人)であったことから、北条宗時も父と一緒に、源頼朝に接近していたものと容易に考えられます。
妹と推定される北条政子も、源頼朝の子をなし、1178年に大姫を出産しました。

そして、1180年、挙兵を決意した源頼朝は、伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃します。
このとき、北条宗時は、北条時政と弟・北条義時らと、佐々木定綱・佐々木経高ら襲撃隊の道案内を務めました。
その後、加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家が援軍として駆けつけ、佐々木盛綱と加藤景廉が、山木兼隆を討ち取っています。

その後、源頼朝らは土肥郷に移動すると、平氏の討伐軍(大庭景親、俣野景久、渋谷重国、河村義秀、糟屋盛久、海老名季貞、曽我助信、滝口経俊、毛利景行、長尾為宗、長尾定景、柳下五郎、香川家政、熊谷直実ら)が迫って来たため「石橋山の戦い」となりました。
暴風雨の中、夜間の合戦となり、多勢に無勢で源頼朝らは敗れ、北条時政と北条義時は箱根の湯坂道を経て甲斐へ逃亡したともされます。(諸説あり)

北条宗時も土肥から伊豆の山を越えて、桑原に降りました。
そして、伊豆・平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経由し、早河付近までたどり着きました。
厳しい敗走だったと推測しますが、北条荘を目指して、逃れて来たのかもしれません。





しかし、平氏側として行動していた伊東祐親の軍勢に発見され、小平井久重(こひらいのひさしげ)の矢を受けて、北条宗時は討死したとされます。(没年1180年8月24日)
また、一緒に逃走していた可能性がある、狩野茂光(工藤茂光)も、函南で自刃したと推測されます。
孫の田代信綱が、介錯していますが、狩野茂光(工藤茂光)は負傷して歩行困難だったようで、なおかつ、太っていて馬に乗れなかったため、輿でも逃げ切れないと考え、死を選択したとあります。

なお、函南町の函南駅から、ほど近いところに、北条宗時の墓があります。
1202年に、北条時政が、北条宗時を供養したものと伝わります。

北条宗時の墓

北条宗時を討つ武功を挙げた小平井久重(小平井紀六久重)は、地元・平井郷の名主となります。
源頼朝が安房に逃れるも、鎌倉を制圧すると、小平井久重がどこかに逃れたので、源頼朝が探させたとあります。





小平井久重(小平井の名主・紀六久重)は、1181年1月6日、相模国蓑毛(秦野市)にて、工藤景光に捕まり、北條時政に引き渡されました。
小平井久重の身柄は、侍所別当・和田義盛に預けられ、北条宗時の殺害を認めたため、逮捕された約3ヶ月後、腰越浜(片瀬)にて処刑になっています。

北条宗時が亡くなったことで、次男だった北条義時が、運良く嫡子扱いになり、やがて執権政治を行うようになるのでした。

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