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利根局とは
利根局(とねのつぼね)は、平安時代末期の女性で、波多野経家の3娘とされます。
波多野経家は、相模・波多野氏5代・波多野遠義の子で、大友経家(大友四郎経家)とも言い、相模国足柄上郡大友郷を領している、波多野一族の可能性が高いです。
この波多野経家の出身は、一部の情報にて、上野国利根荘だとありますが、大友の姓名からも、本貫はもちろん相模・大友荘(小田原市西大友・東大友)であるのが妥当でしょう。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、上野・利根荘を加増されたものと考えられます。
利根荘には、大友経家の子・大友実秀が入ったようで、沼田・波多野氏の祖となりました。
その大友実秀と、利根局は兄弟だったようですので、利根局が、波多野経家の娘であることと一致します。
相模国愛甲郡古庄郷の近藤能成(近藤太能成)と、波多野経家の3娘・利根局の間に、1173年1月3日、近藤能直が生まれました。
近藤能直は、領地の名前から、古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と称します。
その後、母・利根局の家になる波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模・大友郷を継承し、大友能直と名乗りました。
古庄能成(近藤能成)と武藤頼平は、平知盛に従っていたため、源頼朝によって所領を没収されたと推測され、養子の古庄能直は、母の大友郷に入って大友能直と称したものと推測できます。
更には、波多野経家の娘が嫁いだ、中原親能の養子となっています。
この近藤能直(大友能直)が、源頼朝のご落胤だとする説があります。
なんでも、利根局(波多野経家の娘)は、伊豆・蛭ケ小島にて、源頼朝に仕えて侍女をしていたと言います。
そして、源頼朝の妾となり、子を懐妊しました。
しかし、北条政子と言う存在がいたため、利根局は、姉の夫である中原親能に預けられたとあります。
そして、1173年に生まれたのが、中原親能の養子になった大友能直とされます。
ただし、年代の矛盾点があります。
源頼朝と北条政子が、仲良くなったのは、1177年頃と考えられ、1178年に大姫が生まれました。
その前に、伊東で八重姫が子を儲けたのは、1175年頃と考えられます。
そうなると、利根局が源頼朝の妾だった場合には、第1号と言えるでしょう。
なお、異説として、利根局は、もともと大橋貞能の娘であり、波多野経家の養女になったともあります。
この大橋貞能は、平安時代末期、平清盛に仕えた、平貞能(たいら の さだよし)と考えられる、肥後守・筑後守です。
平家滅亡から少したち、1185年6月、大橋貞能(平貞能)は、宇都宮朝綱を頼って投降し、源頼朝に助命されています。
このとき、4人の娘が、御家人に預けられますが、大橋貞能(大橋肥後守平貞能)の娘の一人が、源頼朝の命にて、大友経家(大友四郎太郎経家)に下されたともあります。
この「下された」と言う話は、大橋貞能の娘が嫁いだ可能性もありますが、波多野経家の養女になったと考えるのが妥当になります。
ただし、この場合、大友能直が生まれた1173年より、だいぶあとの話であり、年代が合いません。
しかし、波多野経家の養女になった大橋貞能の娘がいたことは否定できない可能性が高く、単に、この女性の名前が、利根局ではないと考えたほうが良さそうです。
吾妻鏡では、利根局が源頼朝の妾であったとする話が、出ていません。
しかし、大友能直は、1188年、わずか17歳で左近将監となりました。
曾我兄弟の仇討ちでは、源頼朝の身辺を守り、豊前守護守・豊後守護兼鎮西奉行など、かなりの昇進を遂げました。
大友能直が、源頼朝の落胤でなくても、かつて侍女として仕えた利根局や、波多野一族に報いたと言う事だったのかも知れません。
九州に下った大友氏からは、戦国時代の大友宗麟などを輩出しました。
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