祥寿姫を2分でわかりやすく解説~新田義重の娘(源義重の娘)で源頼朝が恋文を出す

目次 contents
  1. 祥寿姫とは

祥寿姫とは

祥寿姫(しょうじゅひめ) は、平安時代末期の女性で、源氏一門である新田義重の娘(源義重の娘)とされます。
名前は不明で、祥寿尼とも呼ばれますが、どんな人だったのか?、生い立ちなどを、ご紹介してみます。
まず知られている事項として、祥寿姫は、源頼朝の異母兄・源義平の妻となりました。
源頼朝から見て、兄・源義平は6歳年上です。

祥寿姫

1159年、平治の乱にて、藤原信頼に味方した父・源義朝に、源義平は従いました。
しかし、敗れると、東国を目指して落ち延びます。
父ともはぐれたようで近江・石山寺に潜伏しますが、翌年の1160年に捕えられ、六条河原にて処刑されました。
源義平、享年20。
祥寿姫は、まだ若くして未亡人になったと言えるでしょう。
源頼朝は、伊豆にて流罪となりました。



1180年、源頼朝は挙兵して鎌倉に入ります。
このとは、新田一族でもある、足利義兼・山名義範・里見義成らは、早くから源頼朝に協力したのに対し、新田義重は、様子を見ています。
安達盛長の取り成しで、なんとか、御家人に加わったと言う感じです。

そして、祥寿姫は鎌倉にでもいたのでしょうか?
源頼朝は、鎌倉に入ったあと、1182年7月頃、伏見広綱(伏見冠者廣綱)に命じて、祥寿姫に恋文を送っています。
しかし、何度送っても、返事がなかったと言います。
そのため、源頼朝は、祥寿姫の父・新田義重に、直接申し入れたとされます。
ちょうどこの頃、北条政子は、比企能員の屋敷にて、長男・源頼家を産もうとしていた月です。
源頼朝がどうこうというより、新田義重は北条政子の怒りを恐れ、すぐに、祥寿姫を師六郎に再嫁させました。
この師六郎なる人物は、全く不明です。
そのため、源氏一門でもある新田氏は、より一層、冷遇を受けることになったと吾妻鏡に記載されています。
この3ヶ月後、源頼朝の妾・亀の前の屋敷が、北条政子の命にて、破壊されると言う事件も発生しています。

確かに、新田氏は、のち室町幕府を開く、足利尊氏よりも、源氏としては格上なのですが、鎌倉幕府を倒した新田義貞も、足利家には及びませんでした。



祥寿姫のその後は不明ですが、新田氏の菩提寺・曹源寺によると、1187年、新田義重が、祥寿姫の菩提寺として建立した六角堂が、曹源寺の始まりと伝わります。
そのため、1187年頃に、祥寿姫は亡くなったものと考えられます。
法名は妙満尼。

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