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北条義時の妻「阿波局」
鎌倉時代の北条氏に関連する女性として「阿波局」がおりますが、同時代に2人の阿波局(あわのつぼね)と呼ばれた女性がいます。
ひとりは、 鎌倉幕府2代執権・北条義時の姉とされる「阿波局」で、北条時政の娘です。(本名不明)
もうひとりは、鎌倉幕府2代執権・北条義時の最初の妻とされる「阿波局」(本名不明)で、1183年にのち3代執権となる北条泰時を産んでいます。
このように、北条時政の娘である阿波局のほうが、北条義時の妻である阿波局よりも年上だと推測されますが、文献でも、書き方・読み方が同じなのでとてもわかりにくいです。
また、北条義時の妻・阿波局に関しては、出自など、よくわかっていな点が多く余計混乱します。
と言う事で、この記事では、北条義時の最初の妻とされる「阿波局」に関して掘り下げて検証してみました。
まず、北条義時の妻「阿波局」に関して、確実性が高い事項・わかっていることとしては下記の通りになります。
阿波局と表現されている。
鎌倉幕府の御所にて、阿波局は女官(女房)として働いていた。
1183年に北条泰時を産んだ。(北条義時21歳)
北条泰時は庶長子ともされるため、阿波局は正室ではなかった。(妾・側室扱い)
以上のこと以外、阿波局に関しては不明でして、出自もよくわかっていません。
一説によると、加地信実の娘として阿波局と言う女性がいるとありますので、まず、この加地信実の娘から検証してみました。
加地信実の娘?
加地信実(かじ のぶざね)は、鎌倉時代前期の武将で、佐々木盛綱の長男です。
父・佐々木盛綱は、佐々木四兄弟の3番目で、源頼朝が伊豆に流されていた時代の1166年から近臣となっていました。
その子が加地信実で、生年は1176年となっています。
加地信実の初見としては、元服したと考えられ15歳のとき(1190年)に、鎌倉幕府の大倉御所にて、双六大会をおこなっていた際に登場します。
なんでも、あとからやってきて、大先輩の工藤祐経が、座る所がなかったため、15歳の加地信実を抱え上げて、席をどかせたと言います
そして、怒った加地信実は、石礫(石ころ)を持ってきて、工藤祐経の額を叩て流血させた事件を起こしました。
加地信実は、鎌倉から逐電したようですが、怒った源頼朝が、父・城資盛が挙兵し、盛綱がその征討軍の指揮官に任じられて城氏を鎮圧してのちの事と考えられます。
以後、盛綱の子孫が加地荘に土着することになるに身柄の引き渡しを要求します。
すると、父・佐々木盛綱は、既に加地信実との縁を切ったと言う事で、工藤祐経も佐々木氏を恨まないと源頼朝が仲介もしました。
その後の加地信実に関しては、不明ですが、1201年、越後の城資盛が挙兵した際に、佐々木盛綱が総指揮をとって鎮圧しており、その後、加地信実が越後国加地荘に入ったものとも推測できます。
その加地信実の娘に「阿波局」と呼ばれた女性がいたと言う話があります。
そのため、北条義時の妻・阿波局は、加地信実の娘なのではないか?とする説があります。
ただ、この加地信実の娘・阿波局が、北条義時に嫁いだとする記録がなく裏付けがとれません。
また、北条義時の妻・阿波局が北条泰時を産んだとすると、その北条泰時が生まれたのは1183年の時です。
1190年の段階で15歳だった加地信実が、1183年での年齢は、8歳くらいとなります。
8歳で、子を成したとは、とても考えにくい訳でして、つじつまが合わず、阿波局が加地信実の娘である可能性は低いと推測できます。
もちろん、養女になったなどの可能性も捨てきれませんが、養女だと仮定してもその裏付けが取れません。
となると、父・佐々木盛綱の娘だったのでは?とも、感じてしまいますが、佐々木盛綱の娘が阿波局であると言う文献も見つからない次第です。
以上のことから、少なくとも阿波の局は、加地信実の娘の阿波局とは、別人である可能性が高いと言えます。
謎の阿波局
このように、北条義時の妻・阿波局は、出自もまったくわからない「謎の女性」と言えます。
北条義時の妻なのですが、北条政子との絡みでも北条義時の妻・阿波局の名前は出てきません。
そもそも、北条時政の娘・阿波局も、両人とも本名が不明です。
それを考慮しますと、文献を記述した者が勘違いして北条義時の妻である女性を、北条時政の娘と同じ「阿波局」で、明記してしまったのでは?とも、感じてしまいます。
伊豆を訪れますと、充分な確証もないのに「そうだ」と言う話になってしまっているケース「伊豆あるある」の歴史認識になっていると感じますと違うかも知れませんが、ちょっとした間違いで、北条義時の妻も阿波局になってしまったとも考えられます。
あと考えられるとしたら、御所で与えられた住まいが「阿波」(あわ)と名付けられていた部屋だったのか?と言うところになるでしょう。2人とも入れ替わりなどで・・・。
もうひとつ、気になる所があります。
比企能員の出身地
比企能員(ひき-よしかず)と言う源頼朝に仕えた有能な重要人物なれど、父母も出自も不明な武将がいます。
比企能員の娘として知られるのは、若狭局がおり、鎌倉幕府2代将軍・源頼家に嫁して、次期将軍候補となる源一幡を生んでいます。
その比企能員の出身地は、鎌倉時代初期の史論書・愚管抄によると「阿波国」なのです。
そのような所縁もあり、北条義時の妻「阿波局」は、比企能員の娘だったのか?とも感じてしまいますが、これも裏付けが取れません。
その阿波は、かつて、佐伯氏が治めた地でもありました。
若狭局も、理由は分かりませんが、後年になって呼ばれ方が変わり、阿波の隣国名でもある「讃岐局」となっています。
そのため、証拠はないのですが、比企能員の娘が阿波局(佐伯氏の娘)と言う事だと、一番しっくりする感じもあるのです。
このように、北条泰時を産んだ阿波局は、エピソードもなくよくわからない女性で、北条時政の娘・阿波局と、名前が同じですので、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、脚本家の三谷幸喜さんも描きにくいと存じます。
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