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佐奈田義忠(佐奈田与一)とは
佐奈田義忠(さなだ-よしただ)は、父・岡崎義実(岡崎四郎義実)と共に、源頼朝の挙兵に従い、1180年8月23日、石橋山の戦いでも果敢に戦った武将ですが、その嫡男の佐奈田義忠(真田義忠、岡崎義忠、佐奈田与一)も父と共に夜間の乱戦を戦いました。
俣野景久と壮絶な組打ちをしますが、血のりで手がすべり、長尾新五の弟・長尾新六によって首を取られました。
家臣の文三家安も奮戦しましたが、稲毛重成の手勢に討たれています。
これらの話は、石橋山の戦いのページにて詳しく掲載させて頂いておりますが、ここでも、おさらいとして、明記させて頂きます。
佐奈田義忠(さなだ-よしただ)は、平安時代末期の武将で、1155年に生まれました。
別名はたくさんありまして、真田義忠、佐那田義忠、岡崎義忠、佐奈田義貞、真田義貞とも書きますが、一般的には佐奈田与一(さなだ-よいち)として知られます。
父は、相模・岡崎城の岡崎義実で、母は中村党・中村宗平の娘となります。
乳母は吾嬬(あづま)と伝わります。
岡崎氏は、相模・三浦氏一族(三浦党)であり、弟の土屋義清は、中村党・土屋氏の養子となっています。
佐奈田義忠(佐奈田与一義忠)は、岡崎義実の嫡男であったことから、将来、岡崎氏を継ぐ立場であり、成人した際に、相模・真田城を、分領されていたものと考えられます。
相模・真田城は、まさに、真田氏発祥地とも言える場所です。
1180年8月8日、伊豆の源頼朝が挙兵した際には、父・岡崎義実とともに、佐奈田与一も参じており、山木兼隆の館襲撃に加わりました。
そして、源頼朝ら一行と、土肥実平の土肥氏館に入ったと考えられます。
そこに、討伐に向かってきた、平家勢の大庭景親、俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実らの大軍が小田原へ入りましたが、挙兵に参加すると約束していた、三浦半島の三浦義澄、和田義盛らが、悪天候と酒匂川の増水で、到着が遅れたため、源頼朝らは、兵力で劣勢な中、大庭勢を迎え撃つため、道が狭い「石橋山」の街道沿いに、布陣したようです。
8月23日、源頼朝は300騎にて、石橋山に陣を構え、大庭景親ら3000騎と、折からの暴風雨の闇夜の中、石橋山の戦いとなりました。
佐奈田義忠(佐奈田与一)は、先陣を任されたとされ、その奮戦ぶりは平家物語や源平盛衰記などで、詳しく描かれています。
佐奈田与一は、郎党15騎ほどで前に出て、平家勢の大庭景親、俣野景久、長尾定景、曽我祐信、山内首藤経俊、稲毛重成、熊谷直実ら73騎に対しました。
この時、佐奈田義忠は、郎党の老臣・陶山文三家康(文三家安)に、後のことを託しましたが、長年仕えていた文三も、一緒に行くと聞かないので、大庭景親か俣野景久と組むから、助けよと命じたとされます。
そして、闇夜で豪雨と言う悪条件の為、敵味方の所在もよくわからない、乱戦になったようです。
まず、平家側の岡部弥次郎が、佐奈田与一に接近してきたそうで、組み伏せて、岡部弥次郎の首を取りました。
しかし、俣野景久だと思っていた佐奈田与一は、岡部弥次郎の首を谷間に投げ捨て、更に前進したと言います。
敵を探していると目当ての俣野景久を見つけ、両者は馬上から地面に落ち、道脇の畑にて、泥まみれの格闘となりました。
月明かりもない暗闇で、文三家安も俣野景久の郎党も、どちらが主君かわからず、手助けできなかったと言います。
そこに、平家側の長尾為宗(長尾新五)が駆け付け「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問いました。
佐奈田与一は「上が景久、下が与一」と言い放ちましたが、俣野景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言い返し、迷った長尾為宗は手探りで鎧の毛を触り、上が佐奈田与一であると、見当をつけたとされます。
とっさに佐奈田与一は、長尾新五為宗を蹴り飛ばし、短刀を抜いて、俣野景久の首をかこうとしました。
しかし、不覚にも鞘ごと抜き放っていたことから刺さらず、すかさず、鞘を抜こうとしましたが、先ほどの岡部弥次郎の首を取った際の血で、手も鞘も滑り、刀が抜けなったと言います。
そうこうしているうちに、長尾新五為宗の弟・長尾新六定景が背後から、佐奈田義忠の首を掻き切らりました。
佐奈田義忠(佐奈田与一)は、享年25。
文三は、谷一つ隔てた峰で戦っていたところ、平家勢の稲毛重成が、佐奈田与一が討死したと伝えたと言います。
そして、稲毛重成は、文三(ぶんぞう)を助けてやろうと「逃げよ」と声をかけたとされますが、主人を失った文三家安は、なおも奮戦しました。
文三は敵に斬り込み、屈強の兵8人を斬り倒したとされますが、稲毛重成の手勢に討たれています。
文三は、享年57と伝わります。
下記は、石橋山古戦場にある、文三堂です。
こうして、武勇の若武者・佐奈田与一義忠と、忠義の郎党・文三の名は、後世に伝わることになりました。
源頼朝は、佐奈田与一の菩提を弔うため、横浜に証菩提寺を建立しています。
また、この石橋を通過するたびに、源頼朝は、与一・文三の墳墓を前に、涙を流したとあります。
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