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足利義兼とは
足利義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期の武将で、河内源氏義国流である源義康(足利義康)の子として生まれました。
母は、藤原範忠の娘(藤原季範の養女)となり、1154年頃に生まれたと推測できます。
<注釈> 藤原範忠は、熱田大宮司・藤原季範の長男であり、源頼朝の母・由良御前とも兄弟になる。
足利荘を継いだ父・源義康(足利義康)は、1157年に、31歳で病没しました。
そのため、4歳くらいだった足利義兼は、父の兄で、下野国新田荘を開発した、源義重(新田義重)の庇護も受けながら、育ったものと考えられます。
1175年、遊女が産んだとされますが、庶長子・足利義純(畠山義純)が生まれており、のち畠山重忠の名跡を次いで畠山氏の祖、岩松氏の祖となります。
そのあと、母不明の桃井義助も誕生しており、のち上野・桃井城を築いて、桃井氏の祖となりました。
吾妻鏡によると、1180年12月12日、源頼朝が鎌倉の新造御所(大蔵御所)に移る際の供奉武将のひとりに、足利義兼の名があることから、源頼朝が伊豆で挙兵すると、早い段階から、源頼朝に合流・参じた模様です。
新田義重の庶子・山名義範(山名氏の祖)、同じ新田氏系で高崎の里見義成も、源頼朝に従いましたが、新田義重は本拠の新田荘・寺尾城に兵を集めただけで、様子見をしていました。
新田義重が、鎌倉に参じたのは、12月22日となっています。
新田氏は、足利氏よりも、嫡流に近い存在とも言えますが、臣従する判断も遅れたことから、以後、足利氏よりも上に立てず、鎌倉幕府を倒した新田義貞も、不遇の目を追う結果になります。
1181年、北条政子の妹・北条時子を妻に迎えており、のち1189年に、嫡子・足利義氏が生まれています。
ちなみに、足利氏と称した武将は、もともと、藤原秀郷の子孫である足利俊綱が、足利荘を開発し、足利氏と称していました。
しかし、平安時代末期には、源氏の足利氏に追われており、1183年、源義広(志田義広)の蜂起に同調したことで所領没収となっています。 (藤姓足利氏滅亡)
1184年5月、木曽義仲の遺児・木曽義高(志水義高)の残党の討伐した際に、甲斐にて足利義兼に武功があります。
また、源範頼の軍勢に加わって、平家討伐にも参じました。
1185年5月、朝廷から源頼朝が六ヶ国の知行を許されると、足利義兼は上総介、山名義範は伊豆守、大内惟義は相模守を任じられています。
1189年、奥州合戦にも参陣し、1190年、出羽にて奥州藤原氏の残党が挙兵した大河兼任の乱では、追討使となって、平定しています。
1193年には、謀反の疑いで源範頼が暗殺され、その他、甲斐源氏の安田義定・安田義資の父子も、誅殺されるなど、源氏が粛清されています。
動揺に、足利義兼も、源頼朝に近い血縁でもあり、難しい立場でした。
そのため、同じ源氏一門と言うよりは、鎌倉幕府の御家人のひとりなり、派手に表に出ることを控えた模様です。
1195年3月、源頼朝が東大寺供養のために上洛した再、同行した足利義兼は、供養が終わると、その場で出家し、鑁阿(ばんな)と称しました。
1196年には、妻・北条時子が死没しています。
晩年は、足利荘の屋敷に持仏堂を設けて過ごしましたが、のちの足利・鑁阿寺(ばんなじ)と言う事になります。
足利荘では、内外典の説教をしたり、僧俗の教学にも力を入れたと言い、これが足利学校のはじまりともされます。
1199年1月、源頼朝が死去。享年53歳。
あとを追うように、足利義兼も、3月8日に死去しました。享年46歳。
北条時子の間に生まれていた足利義氏が家督を継ぎ、鎌倉時代の足利氏としては、最盛期を迎えます。
鎌倉時代、足利氏は、概ね、執権・北条一門から妻を迎えてもいます。
足利公方屋敷跡
足利公方屋敷と名付けますと、ちょっと誤解が生じるかも知れませんが、足利氏の鎌倉屋敷跡、もしくは、鎌倉公方屋敷跡と言ったほうが、良いのかも知れません。
この鎌倉市浄明寺の金沢街道沿いに、最初に屋敷を与えられたのは、足利義兼とされます。
場所は、当方のオリジナル地図にて、地図内で「足利公方屋敷」と検索して頂けますと幸いです。
ちなみに、梶原景時の屋敷、大江広元の屋敷もこっちのほうです。
足利貞氏の墓は浄妙寺に、その更に山側には、足利直義の墓もあります。
その後、足利氏は、この足利公方屋敷の場所を代々使用したようで、足利尊氏が室町幕府を起こした際に嫡男・足利義詮が入ったほか、鎌倉公方となった足利一族の屋敷として使用したようです。
鎌倉公方(かまくらくぼう)の初代は、足利尊氏の4男・足利基氏で、鎌倉に入り関東の統治を管轄しました。
しかし、権力争いは絶えず、鎌倉公方5代・足利成氏は、1455年に関東管領・上杉憲忠を誅殺し、享徳の乱が勃発すると、鎌倉から出陣したまま帰らず、古河を本拠にして古河公方となりました。
以後、足利公方屋敷が使われることはなかったようです。
→足利氏館 足利氏宅跡(鑁阿寺) 日本100名城
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