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平景清とは
平景清(藤原景清)は、生年不詳ですが、平安時代末期の武将です。
父は、藤原忠清(ふじわら の ただきよ) で、藤原秀郷流伊藤氏になる、伊勢国度会郡古市荘を本拠として、平清盛に仕えた平氏の家来でした。
その子、藤原景清(ふじわら の かげきよ) は、1156年、保元の乱では、平清盛の軍勢にて先陣を務め、源為朝と戦いました。
その父・藤原忠清は、1179年、従五位下・上総介となっており、平氏から「坂東八ヵ国の侍の別当」の任を受けて、関東の武士を束ねるほど、力を持っていたようです。
藤原忠清(平景清)は高圧的な態度で、坂東武者に接するなどし、反感を抱いた上総広常などは、1180年、源頼朝が挙兵して、安房に逃れると、源氏に味方するようになったと言えます。
平景清は「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど、勇猛な武将だったと伝わります。
平氏の都落ちにも、従っていたので、平姓で平景清とも呼ばれていると言う事になります。
父・藤原忠清は、出家したことから、平氏の都落ちには同行しておらず、平家滅亡の壇ノ浦の戦いのあと、志摩国麻生浦にて、加藤光員の郎党に捕らわれ、京の六条河原にて処刑されました。
源頼朝暗殺計画
藤原忠清には兄に上総忠光(上総五郎兵衛尉忠光)がいたと言います。
吾妻鏡によると、上総忠光は、鎌倉・二階堂にて、永福寺の造営中、視察に来る源頼朝を暗殺しようと、土工にまぎれ込みましたが、怪しまれて捕まったとあります。
1192年1月21日、左目を失っている人夫がいて、佐貫広綱(佐貫四郎大夫広綱)が調べると、太刀を懐に隠していたと言います。
尋問すると、この人夫は「上総五郎兵尉忠光」 だと答えたとあり、源頼朝を殺害するつもりだったと白状しました。
この上総五郎兵尉忠光は、藤原忠清の子(平景清の兄)とされます。(平景清には兄が6名いた模様)
和田義盛が身柄を預かり、他に共謀者がいないか?更に問いただしたところ「他に仲間はいないが、丹波で隠居している越中盛嗣(越中次郎兵衛尉盛嗣)が、同じ志かもしれない」と答えたとあります。
この越中次郎兵衛盛嗣は、平盛俊の子で平盛嗣(たいら の もりつぐ) と言う平氏の名将です。
約1ヶ月後、上総忠光は、六連(六浦)の海辺で斬首されました。
1194年、越中盛嗣(平盛嗣)も捕まり、鎌倉に連行されると、由比ヶ浜で斬られました。
そして、1195年、源頼朝と北条政子が上洛して、後鳥羽上皇と共に、奈良・東大寺「大仏殿」の落慶供養に参列する際、この記事でご紹介している、平景清が、東大寺の転害門に隠れていたという伝説があります。
別の話では、平景清は東大寺ではなく、石清水八幡宮を参拝した、源頼朝を暗殺しようと企んだともされます。
捕らえられた平景清は「平家物語」や「源平盛衰記」によると、和田義盛から八田知家に預けられたとあります。
なお「吾妻鏡」では、薩摩中務家資なる者が、東大寺にて源頼朝を暗殺しようと転害門にいたのを逮捕し、六条河原で斬ったとあります。
平景清は、化粧坂下の土牢に監禁されたと言う事で、それが鎌倉・扇ケ谷牢跡「景清窟」の「水鑑景清大居士の碑」と言う事になります。
覚悟を決めた平景清は、断食したと言い、1196年に亡くなったとされます。
一説では、悟を開いた、平景清は、自ら土牢に入り、断食の末、1196年3月7日に、息絶えたと言います。
人丸姫
京都・清水坂(五条坂?とも)の遊女である阿古屋(あやこ)が、平家の残党・平景清の子である人丸姫を生んだとされます。
畠山重忠が、京にて、阿古屋を取り調べしたことがあるともされますが、いずれも、浄瑠璃(じょうるり)に出てくるような話となります。
<注釈> 平景清は尾張・熱田で身を隠していたともされ、正妻は、熱田大宮司の娘・小野姫(千秋季範の娘とも)とある。
「景清物」と呼ばれる浄瑠璃「出世景清」などがあります。
そして、人丸姫に関しても、いくつか伝承があるのですが、鎌倉に伝わる内容は下記の通りになります。
平景清の娘・人丸姫は、捕えられた父・平景清(藤原景清)に会うため、京都より鎌倉に下った。
しかし、すでに平景清は死んでいたため、鎌倉で尼となり、平景清が幽閉されていた石牢の上に、守本尊(十一面観音像)を安置した、向陽庵を築いた。
人丸姫は、畠山重保と恋仲だったと言う話もある。
人丸姫が亡くなる(享年27?)と、扇ヶ谷の巽神社付近に葬られ、そこは人丸塚と呼ばれていた。
向陽庵は、1201年~1203年頃、人丸姫が、尼寺・真光院(海蔵寺の手前)の境内に、創建したともあります。
今の鎌倉・海蔵寺の駐車場あたりでしょうか?
人丸塚は、横須賀線の線路工事の為か、移転となったようで、現在は、北条政子の供養塔もある、鎌倉・安養院が引き受けて、安置されているようです。
十一面観音像は、現在、近くの鎌倉・海蔵寺にて保管されているそうですが、非公開です。
水鑑景清大居士の碑
水鑑景清大居士の碑は、平景清が土牢に入っていた場所「景清屈」にあります。
道端の崖にあると言う感じですが、少し、高い場所に、そんなに大きくはない、正座して入れる程度の穴が開いていました。
「水鑑景清大居士」の石碑が建つ「景清窟」の場所は、当方のオリジナル地図でも、ポイントしております。
地図の中で「景清」と検索してみて頂けますと幸いです。
近くの鎌倉・海蔵寺とセットでどうぞ。
以上、平景清の本当の名前は、藤原景清ですが、平氏に深く関与していたため、あだ名のように、平氏姓で呼ばれているように感じます。
九州の日向に落ち延びた話では、梶原景清として登場もしています。
梶原氏も、平姓梶原氏ですが、梶原景清は、梶原景時の父とされるますので、恐らくは誤認であると考えられます。
また、浄瑠璃(創作の話)によって、だいぶ脚色もされているようですので、実際の藤原景清が、平氏滅亡後、どうなったのかは、不明と言えるでしょう。
ただ、同じ藤原秀郷流の藤原氏は、波多野氏・比企氏など、源頼朝に協力している武将も多いため、時代の流れとは言え、平氏と源氏、どちらに味方するかで、明暗を分けたことは、間違いなさそうです。
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