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源頼茂とは
源頼茂(みなもと の よりもち) は鎌倉時代の武将で源頼兼の長男として1179年頃に生まれた。
母は不詳。
父・源頼兼は、1180年、以仁王を奉じ先駆けて挙兵し、宇治で敗れて討死した源頼政の次男にあたる。(摂津源氏)
その父・源頼兼と源頼茂は鎌倉幕府の御家人となって、1183年から主に在京し都で大内裏守護の任務(天皇の警護)に就いていた。
そのほか、朝廷と鎌倉の橋渡しも行っており、父は捕虜となった平重衡を南都(奈良)に引き渡すため、鎌倉から護送をしたこともある。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の井上ミョンジュさんが源頼茂を演じられる。
源頼茂は正五位下、大内守護、安房守、近江守、右馬権頭と鎌倉時代の源氏らしく出世もした。
建暦3年(1213年)の和田合戦に鎌倉幕府側として奮戦。
建保4年(1216年)に政所別当が5人から9人に増員されると、源頼茂も名を連ねた。
承久元年(1219年)1月27日に鎌倉・鶴岡八幡宮で行われた将軍・源実朝の右大臣拝賀式にも殿上人として参列。
公暁による源実朝暗殺事件の現場にもいたと言う。
2月11日、将軍の座を狙った阿野時元が挙兵するも、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の軍勢が討ち取った。
北条時房が1000騎で上洛し後鳥羽上皇と交渉。
6月13日頃、朝廷では西園寺公経の外孫・三寅(みとら・2歳)を鎌倉幕府の次期将軍として送ることを決定。
その後、1219年7月13日、後鳥羽上皇の命に従った在京の武士(西面の武士)らが、平安御所内の昭陽舎(宿舎)にいた源頼茂を襲撃。
<注釈> 西面武士(さいめんのぶし) は1200年ごろ後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成。(主なメンバーは河野通政、仁科盛遠、後藤基清、佐々木広綱、加藤光員、土岐光行、藤原秀康、藤原秀澄、藤原秀能など)
源頼茂は応戦しつつ、内裏の中央にある仁寿殿まで突き進んだが篭り火を掛け自害した。享年41。
子の源頼氏(馬場頼氏)は捕縛されたあと処刑された。20余歳だったと伝わる。
仲間の藤原近仲(ふじわらの ちかなか)、源貯(みなもとの たむる)、平頼国(たいらの よりくに)らも自刃したようだ。
燃え広がった火災にて火災にて宜陽殿・校書殿などが焼失。
仁寿殿の観音像、応神天皇の御輿、御装束や霊物などが灰燼(かいじん)に帰した。
<注釈> 源頼氏(馬場頼氏)の3人の子(源頼明・源輔頼・源国頼)は、まだ幼少だったため美濃国に流罪となった。末弟・源国頼の子孫としては後裔は繁栄し、戦国時代に武田信玄の重臣として活躍した馬場信春(教来石信房)などがいる。
大内裏の再建には莫大な費用がかかることもあり、後鳥羽上皇は焼失のショックによる心労が重なったのか?、8月中旬から1カ月以上も病床に伏した。
源頼茂が追討された理由
源頼茂が追討された理由に関しては諸説あり不詳。
吾妻鏡では後鳥羽院の意向に背いたためとされている。
朝廷が鎌倉幕府を倒幕しようとした計画を源頼茂が察知した為ともされる。
愚管抄、保暦間記では、源頼茂が鎌倉幕府の将軍になろうと謀反を図っていたとするが、鎌倉幕府に謀反を起こした問題のためわざわざ後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすとは思えない。
状況からすると、藤原兼子の政敵である西園寺公経の外孫・三寅(みとら・2歳)が、鎌倉幕府4代将軍になるべく7月19日に鎌倉に到着しているため、源頼茂を通じて藤原兼子がなんらかの妨害を考えていたとも推測できる。
後鳥羽上皇は最勝四天王院の法印尊長にせっせと鎌倉の呪詛をさせていたともされ、源頼茂が察知したので後鳥羽上皇の命にて源頼茂は討伐されたとも考えられる。
この源頼茂が殺害に追い込まれた事件で個人的に感じたのは捕縛した子らの処分も、御家人を管轄する鎌倉幕府側ではなく、朝廷が決めたと考えられる事。
鎌倉幕府の北条義時としても面白くはなかっただろう。
かくして鎌倉と朝廷はより対立を深め、承久の乱へと発展したのであった。
1220年、後鳥羽上皇は密かに近江に行幸し、長浜の名超寺にて北条義時追討の祈祷を行った。
1220年10月中旬、内裏の殿舎・門・廊などの立柱・上棟の儀式にこぎつけたが、1221年5月、後鳥羽上皇は尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義、京都守護・大江親広(大江広元の子)、藤原秀康、大内惟信などを集めると承久の乱となり、内裏の再建は中止となった。
参考文献は下記の通り。
■愚管抄
俄に頼政が孫の頼茂大内に候しを、謀反の心起して我将軍にならんと思たりと云事あらはれて、在京の武士ども申て、院へ召けれどまいらざりければ、内裏に火さして大内やけにけり。左衛門尉盛時頸を取て参りにけり。伊豫の武士河野と云をかたらいけるが、かうかうと申たりけると聞へき。
■北条九代記
勅定に依って頼茂朝臣(右馬権頭、頼政卿孫)を誅す。仍って仁寿殿回禄し、代々の重宝焼失しをはんぬ。
■保暦間記
左馬頭頼茂朝臣(源三位頼政孫)将軍の望有に依て謀反を起す。折節大内守護なる間、内裏に立籠る。時刻を移さず責られければ、仁寿殿に籠て自害しをはんぬ。其時代々仙洞の重宝失にけり。
■百錬抄
丙午申の時、洛中の武士馳走す。これ院宣に依って右馬権の頭源頼茂朝臣を追討せらるるなり。彼の朝臣大内を守護するの間、勇敢の輩数輩諸門を閉め、ただ承明門を開け合戦す。官軍多く手を負う。頼茂火を殿舎に懸け焼死すと。宜陽殿・校書殿・塗籠累代の御物等皆灰燼と為る。
■吾妻鏡(鎌倉に7月25日報告が届いた)
7月25日、酉の刻(18時頃)、伊賀太郎左衛門の尉光季の使者京都より到着す。
申して云く、去る十三日未の刻、右馬権の頭頼茂朝臣を誅し、子息下野の守頼氏を虜えをはんぬ。折節若君御下向の間、故に飛脚を止め、今に子細を啓さずと。頼茂叡慮に背くに依って、官軍を彼の在所昭陽舎に遣わし合戦す。頼茂並びに伴類右近将監籐の近仲・右兵衛の尉源の貯・前の刑部の丞平の頼国等、仁寿殿に入り籠もり自殺し、郭内の殿舎已下に放火す。仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿、及び大甞會御即位の蔵人方往代の御装束・霊物等悉く以て灰燼と為す。朔平門・神祇官・官の外記廰・陰陽寮・園韓神等その災を免かると。
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