西八条禅尼のわかりやすい解説【鎌倉殿の13人】千世の生涯




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目次 contents
  1. 西八条禅尼とは

西八条禅尼とは

西八条禅尼 (にしはちじょうぜんに) は鎌倉時代初期の女性で1193年生まれ。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」)では「千世」と言う役名になっており、俳優(女優)の加藤小夏さんが演じられる。

父は権大納言・坊門信清(ぼうもん のぶきよ)。
父・坊門信清の母である藤原通基の娘の姉が産んでいる藤原殖子が高倉天皇の後宮となって後鳥羽天皇を儲けている。
そのため、後鳥羽上皇の従妹(いとこ)が、西八条禅尼(千世)と言う事になる。
なお、千世と言う名は創作で、実際の名前は不詳。
一説によると実名は信子(のぶこ)ともされるが尊卑分脈など史料での表記は見受けられない。(信子は父・坊門信清の妹とも)
例えば、叙位などを受ける際には、北条政子が「政子」と朝廷に届け出たように名前を提出するが、坊門信清の娘に関しては叙位された事も認められないため、実名が不明といったところだ。
<注釈> 叙位をもらう際に女性は実名が違っていても朝廷向けには「〇子」とするのが通例のため、北条政子も実際の名前は違った可能性もある。(そもそも人妻を実名で呼ぶのが失礼な時代だったこともある)





兄に坊門忠信、坊門忠清らがいる。
出家後の法名は本覚尼(ほんがくに)で、西八条禅尼は通称と言えるが、本項では西八条禅尼として主に表記させて頂く。

1203年、鎌倉幕府第3代将軍に源実朝が決定すると、北条政子の姪にあたる足利義兼の娘を正室にと言う話も出たが、朝廷との結びつきを重視し、京都から公卿の娘を迎えることになった。

1204年、鎌倉幕府の京都守護・平賀朝雅や、後鳥羽上皇側の源仲章、慈円らの話がまとまり、前大納言・坊門信清の娘である西八条禅尼が鎌倉に赴くことになった。
源実朝12歳、西八条禅尼11歳の時である。

鎌倉からは北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田宗実・土肥惟光などが上洛し、西八条禅尼を警護して鎌倉に入った。
吾妻鏡では西八条禅尼(坊門信子)のことを「御台所」とのみ記載している。
子には恵まれなかったが、源実朝との仲は良かったようで、北条政子ともよく寺や堂に参詣している。(日向薬師など)
1213年、和田義盛の乱では大蔵御所の一部が焼失し、源実朝・御台所・北条政子らは大江広元の屋敷に逃れている。

父・坊門信清は朝廷と鎌倉幕府の仲介役なども果たしたが、九条兼実は批判している。





1219年、鎌倉・鶴岡八幡宮にて公暁が源実朝を暗殺するが、この現場には拝賀式のため鎌倉へ下向していた兄・坊門忠信もいた。
翌日、西八条禅尼(坊門信子)は寿福寺にて出家。(法名・本覚尼)

当時、貴族女性の離婚・再婚は問題なかったが、すぐに出家していることからも、夫の菩提を弔う道を選択した心中が伺える。

その後、京に戻って京都西八条にあった源実朝所有の邸宅を住まいとしたため、西八条禅尼と呼ばれたのであろう。

1221年、承久の乱では兄・坊門忠信が葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能らと鎌倉幕府打倒を目指すも敗北。
西八条禅尼は兄らの嘆願を行うと兄・坊門忠信は助命され、越後国への流罪と減刑されている。(他の5名は処刑されている)
後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に、土御門上皇は自ら望んで土佐に配流された。

1222年、京の自邸を尼寺にし、源実朝の菩提寺・遍照心院(大通寺)を創建。

1274年9月18日、西八条禅尼(本覚尼)は死去。享年82。





遍照心院(大通寺)は将軍家の祈祷寺であるから、何かあった際には、鎌倉の安達泰盛を頼るようにと言い残している。
ときの執権は北条時宗であり、翌月にはモンゴル襲来(元寇)となった。

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