藤原頼衡の悲しい最期をちょこっと解説~奥州藤原氏・藤原秀衡の6男【鎌倉殿の13人】




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目次 contents
  1. 藤原頼衡とは

藤原頼衡とは

藤原頼衡(ふじわら の よりひら)は鎌倉時代初期の武将で、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡の6男として、1174年頃に生まれた。
母は不詳。
兄に藤原国衡、藤原泰衡、藤原忠衡、藤原高衡、藤原通衡がいる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて俳優の川並淳一(かわなみ じゅんいち)さんが若き藤原頼衡を演じられる。





1187年10月29日、父・藤原秀衡が死去すると、正室が産んでいた次兄・藤原泰衡が家督を継いでいる。
<注釈> 藤原秀衡の遺骸はミイラとなって、現在も平泉・中尊寺の金色堂(国宝)に納められている。

父・藤原秀衡は遺言として、源義経を将軍にし、兄弟異心無きよう藤原泰衡・藤原国衡・源義経らに起請文を書かせ、鎌倉・源頼朝の攻撃に備えるよう言い残していた。

1188年、鎌倉を追われた源義経が平泉にいることを鎌倉殿・源頼朝が知ると、奥州藤原氏に源義経追討宣旨を下すよう後白河法皇に奏上。
朝廷は、2月と10月の2回、徳尼公の父・藤原基成と、4代目・藤原泰衡に、源義経追討宣旨を下している。

しかし、藤原泰衡は亡き父の遺命に従って拒否したため、源頼朝は奥州追討の宣旨を何度も要請し、奥州藤原氏に圧迫をかけている。

1189年2月15日、鎌倉からの圧迫に耐え切れなくなった藤原泰衡は、源義経を支持していた末弟(6男)の藤原頼衡を殺害した。
藤原頼衡を紹介する記事にも関わらず、いきなり亡くなってしまったが、史料にて藤原頼衡に関する記述は無く、このような記載しかできない。
吾妻鏡にも藤原頼衡の名が出てこないが、16歳前後だったと考えられる。

もう少し詳しく調べてみた結果も記載しておく。





兄・藤原泰衡と不和となった藤原頼衡(錦戸太郎頼衡)は、身の危険を感じて、ひそかに平泉を脱出し北へ逃走したともある。
しかし、紫波町と雫石町の境にあたる東根山麓のところで追手によって殺害されてしまったとも。

この4ヶ月後、閏4月30日に藤原泰衡は、平泉衣川館の源義経を襲撃して自害に追い込み、更に異母弟(3男)の藤原忠衡も殺害した。

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