スポンサーリンク
以仁王の生涯
以仁王(もちひとおう)は平安時代末期の皇族で、1151年、後白河天皇の第三皇子として生まれました。
母は藤原成子(権大納言・藤原季成の娘)です。
幼いころから優秀だったようですが出家となり、天台座主・最雲法親王の弟子になりました。
しかし、1162年に還俗すると、1165年、人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したとされます。
そして、暲子内親王(八条院)の猶子となりました。
<注釈> 猶子(ゆうし)と言うのは、実の親子ではないが親子となるが子の姓は変わらない。養子よりは緩やかな親子関係と言える。
以仁王は、皇位継承での有力候補でしたが、異母弟・憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母である平滋子(建春門院)の妨害にあっていました。
1166年、母方の伯父・藤原公光も権中納言・左衛門督を解任されており、以仁王の皇位継承は無くなったと言えます。
1167年、平清盛は太政大臣にまで登りつめ平氏政権を形成します。
1168年には、まだ5歳の六条天皇が退位となり、8歳の高倉天皇が擁立されています。
1171年、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させました。
1179年、平清盛は対立した後白河法皇を幽閉して関白・松殿基房を追放する「治承三年の政変」にて、以仁王も城興寺領を没収されました。
1180年2月、高倉天皇は譲位し中宮徳子の産んだいた、3歳の安徳天皇(平清盛の孫)が即位し平清盛が補佐しました。
こりにより、以仁王(高倉宮・三条宮)の即位は完全に断たれてしまいます。
以仁王の挙兵
このような不遇が重なった以仁王(高倉宮・三条宮)は園城寺や興福寺を頼りにしていました。
そして平氏討伐を決意し、1180年4月、源頼政の勧めもあり平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。
以仁王の令旨の内容としては、自らを最勝(さいしょう)親王と称し、平氏討伐後は皇位につくことを宣言した令旨(りょうじ)と言う事になります。
源氏の長老であった源頼政と以仁王は、諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を書くと、源行家を使者として各地に向かわせました。
派遣先としては、源光信(美濃源氏)、多田行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐源氏)、伊豆の源頼朝、陸奥の源義経などになります。
しかし、1ヶ月後の5月には挙兵計画が露見し、検非違使が以仁王ほ逮捕しようとしたため園城寺へ逃れました。
源頼政も園城寺に入って以仁王と合流しましたが、延暦寺が平氏に屈して以仁王支援を辞めたため園城寺も危険になり、源頼政と以仁王とともに夜陰に紛れて奈良の興福寺へ向かいました。
その途中、以仁王が疲労のため落馬し、途中の宇治平等院にて休息を取ったところ、4月26日に平氏の大軍が攻め寄せてきました。
源頼政は以仁王を逃がさそうと宇治平等院にて対抗しましたが、子の源仲綱・源宗綱・源兼綱らも討ち死にし、港も頼政も辞世の句を残し渡辺唱の介錯で自刃しました。享年77。
以仁王は、奈良・興福寺を目指すも、加幡河原にて平氏の藤原景高・伊藤忠綱らに追いつかれ討たれました。享年30。
流れ矢に当たったともされますが、生き延びたと言う伝承も全国各地にあります。
以仁王自身の平氏追討は失敗となりましたが、令旨を受けた源頼朝や木曾義仲など各地の源氏は挙兵・源平合戦となり、平氏は滅亡への道を進むことになりました。
2005年のNHK大河ドラマ「義経」では俳優の岡幸二郎さんが、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」では柿澤勇人さんが以仁王を演じられました。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では声優・俳優の木村昴さんが抜擢されています。
→源頼政とは~武勇に秀でた源頼政の墓所を追う旅
→5分でわかりやすい【源頼朝】の解説「鎌倉幕府・征夷大将軍・鎌倉殿」旧相模川橋脚も (鎌倉殿の13人)
→平清盛【謎の出自】 ~年表付~平家の棟梁の姿を追う
→源行家の解説 以仁王の挙兵【以仁王の令旨】使者
→鎌倉幕府とは 武家政権設立までの道のりをわかりやすく
→建春門院(けんしゅんもんいん)を簡潔に解説~後白河天皇から寵愛を受けた平滋子
→石橋山古戦場(石橋山の戦い)【源頼朝挙兵】参加武将など合戦経緯と訪問方法(駐車場)
→平氏の解説「なんで平氏なの?」わかりやすく簡単に説明