佐伯景弘の解説~平家に仕え厳島神社を興隆に導いた神官




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目次 contents
  1. 佐伯景弘とは

佐伯景弘とは

戦国時代の乱世に厳島神社を守り、繁栄させた神官として棚守房顕が著名ですが、その先駆けと言うべき人物が、平安時代末期、源平合戦の時代に存在しました。その人物こそが、本稿で紹介する佐伯景弘(さえきのかげひろ)です。

平清盛に仕えて力を伸ばし、現代まで続く厳島神社の繁栄をもたらした人物の一人であるにもかかわらず、景弘の前半生はおろか、生年すら判明していません。判明しているのは、厳島神社に仕える社家出身で、同神社の神主・佐伯頼信の息子として生を享けたと言うことのみです。

佐伯景弘

景弘が平家に接近したのは久安2年(1146年)、平清盛が安芸守を拝命した時だったと言われており、景弘は平家の家人として仕官しています。その理由として九州大学の光成淳治さんは、在地領主としての基盤強化を考えていた佐伯氏と、彼らを家人化する事で国衙を掌握しようとしていた清盛側の意図が一致したとしています(※1)。

また、景弘が清盛に近づいた理由としては彼の世代にはすでに衰微していた厳島神社を復興させると言う目的があったとも言われます。いずれにしても清盛は厳島神社の善き支援者となったことは間違いなく、景弘が懸念していた社殿の修繕や平家に寄進された荘園の領有権を賜るなど、厳島神社と平家の結びつきは強化されました。





平治の乱(1160年)を経て治承3年(1179年)の政変で強大な権力を手にし、“平家にあらずんば人にあらず”と後世に語り継がれる栄華を手にしていった清盛の台頭と共に、景弘と彼が率いる厳島神社の地位も高まります。郷司(公領に仕える在庁官人)や地頭の地位、そして平氏姓を名乗る許可を与えられるなど、彼の出世は聖俗両面に渡っていました。

景弘も平家一門の寵愛と信頼に応えるべく忠勤を励み、寿永元年(1182年)にはかつて主君清盛が朝廷から拝命していた安芸守に任官され、神社に奉職する聖職者のみならず平家配下の豪族としても西国にその名を轟かせたのです。

しかし、平家と佐伯氏(そして厳島神社)の蜜月関係は景弘が安芸守になった3年後に崩壊します。壇ノ浦の戦いで平家滅亡です。この戦いで捕まった平家一門は平宗盛や伊藤忠清のように処刑されたり、助命されるも自決した平盛国など悲惨な運命を辿り、それは敗者の側である景弘にも向けられてもおかしくないものでした。





事実、『源平盛衰記』には佐伯景弘と子供の景信が降人、すなわちに源氏への降伏者となったことが記されているのですが、勝者である源頼朝は佐伯氏を滅ぼさずに存続させます。そればかりか、文治4年(1188年)には安徳天皇と共に壇ノ浦で水没した三種の神器・天叢雲剣の捜索する勅使に景弘を任ずるほどの厚遇で扱っているのです。

その理由として、厳島神社と佐伯景弘の宗教的権威によるもの、佐伯氏が西国で大きな影響力を持っていたことなどが推測されていますが、はっきりとした事は景弘の没年と同様に分かっていません。

ここまで調査して判明しているのは、佐伯景弘は後世の戦国時代に厳島神社を再興した棚守房顕がそうだったように、時の権力者に接近する事で経済力や自前の戦力すら獲得し、厳島ばかりか西国の各地を繁栄に導く力と志に長けていた人物であると言う事です。

やはり、それも房顕と同様に現代日本人の常識からみると聖職者らしからぬ事と思われても致し方ない部分はありますが、現代と比較すれば法や道徳心による統率が成立しにくかった中世から近世の我が国においては、延暦寺のように寺社も自力救済が求められる時代であり、景弘もそうした神社を率いる当主でありました。

朝廷・平家・源氏と仕える権力者は変われども乱世をたくましく生き延び、厳島神社を発展に導いた佐伯景弘は、大河ドラマ『平清盛(演:温水洋一さん)』ではパワフルな平家の面々に手を焼きつつも忠実に仕える朴訥な好人物として描かれ、広島県では彼に因んだキャラクターやイベントが考案されるなど、清盛に勝るとも劣らない同地のヒーローとして今も自らが愛した厳島の地を守り続けています。

参考サイト

(寄稿)太田

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