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島津忠久とは
後に九州の雄藩として名を馳せる薩摩の島津氏ですが、その開祖は鎌倉時代初期の武将・島津忠久(しまづ‐ただひさ)にまで遡ります。
住吉大社(大阪府)の境内で産まれ、本姓として惟宗(これむね)を名乗っていた忠久の生年は諸説があり、島津氏の家伝によると治承3年(1179年)とも言われ、文治5年(1189年)に畠山重忠を烏帽子親として13歳で元服したとする記録からその2年前だとするもの、或いは『島津忠久の生ひ立ち』で朝河貫一さんが提唱した1165年かそれ以前だとする説もあり、はっきりとは分かっていません。
両親についても、丹後局(比企尼の娘)が実の母というのが有力視されていますが、実の父についても諸説があります。
1. 後白河法皇に仕えた歌人・惟宗広言の実子ないしは養子。
2. 藤原北家に属する京侍・惟宗忠康と丹後局の子
3. 丹後局が源頼朝の寵愛を受けて産んだ御落胤
いずれにしても当時惟宗姓だった忠久は九州ではなく京や鎌倉で仕官していたらしく、元暦2年(1185年)には比企能員のもとで平家討伐に参戦し、同年には頼朝の推挙で摂関家の所領だった島津荘下司職を賜り、後には惣地頭に任命されました(島津国史によると翌年に木牟礼城に入ったとされる)。
九州の守護職と比企の乱
九州地方だけでなく、信濃塩田荘(長野県)にも地頭職を賜った忠久は文治5年の奥州合戦への参戦、建久元年(1190年)には頼朝の上洛に随行するなど御家人として鎌倉幕府に忠勤を励みます。建久9年(1198年)には大隅・薩摩、そして日向の守護職を与えられ、翌年には左衛門尉に任ぜられたことで、もっとも大きな島津荘を本貫(名字の地名)とすることを決め、島津左衛門尉と名乗りました。また、結婚した時期は不明ですが烏帽子親とされる畠山重忠の娘を貞嶽夫人として妻にしています。
正治2年(1200年)には源頼家の鶴岡八幡宮社参に従うなど、御家人として順風満帆の人生を歩んだかに見えた忠久でしたが、その3年後に起きた比企の乱で能員が討ち取られて比企は滅亡、その縁者だったことで忠久は薩摩・大隅・日向を召し上げられる重罰を受けたのです。
北条に仕え、鎌倉で死す
比企の血縁者だったために罰せられた忠久の動向はしばらくの間不明になりますが、比企の乱から10年後の建暦3年(1213年)には源実朝に学問所番として仕え、和田合戦でも波加利荘(山梨県)に所領を得ます。同年には薩摩国地頭職にも復帰、承久3年(1221年)の承久の乱が北条義時ら幕府軍の勝利で終結すると越前国守護に補任されました。
また、この頃の忠久は藤原姓も名乗っており、元仁元年(1224年)に後堀川天皇の即位儀礼として催された八十島祭では随兵を務める役目を担い、嘉禄元年(1225年)には検非違使にも任ぜられます。
こうして頼家・実朝(頼朝落胤説を採用すれば腹違いの兄弟に当たる)の死後も北条氏が主権を握る鎌倉幕府に仕え続けた島津忠久は嘉禄2年(1226年)に豊後守を拝命した翌年に脚気と赤痢で世を去ります。島津氏による南九州支配の先鞭をつける偉業を果たした忠久ですがその基盤はまだ脆弱で、同地を治めるようになるのは元寇で活躍した孫の経久、そして5代目の貞久が足利尊氏に味方して薩摩に土着するまで待たなくてはなりませんでした。
なお、死没した当初の墓所や霊廟は不明ですが、今も残る彼の墓は子孫である薩摩藩主・島津重豪によって頼朝が眠る白旗神社のそばに建立され、大江広元や義時、毛利季光らと共に今も鎌倉の地で眠りについています。
参考サイト、文献(敬称略)
鹿児島県公式ホームページ
島津忠久の生ひ立ち 朝河貫一 立教大学学術リポジトリ
(寄稿)太田
・北条時輔の解説~得宗家の内紛で散った北条時宗の長兄
・藤原秀郷をわかりやすく解説~坂東武士の憧れとして多くの武家を残し現代日本人に通じる英雄
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